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2005年06月08日

子之神試論-1

[ 6-断 想 ]

 論というより、想像(ファンタジー、歴史浪漫、妄想?)です。
 なお、継続的に追加、更新予定です(^^ゞ

 先日、東久留米を流れる黒目川を上流に向かってジョギングしていたら、自転車の伴走者が「近くに不思議な雰囲気のある小さな神社があるから行ってみよう」というので、川岸を離れて段丘崖下に向かった。
 川から50mほどで神社参道階段下に着く。
 左右に覆い被さる樹木が静謐な暗がりを作っている。「子ノ神社」(ねのじんじゃ)だった。

 「子ノ神社」は黒目川の左岸段丘にある小さな神社。東久留米駅南口から所沢方面に歩いて黒目川に降りて橋を渡り、黒目川左岸の上流にわずかに行った河岸段丘崖にある(旧小山地区、小山1−14−25)。
 聞いたことのない神社の名前に惹かれた。子ノ神社? 階段上にある社殿そのものには特別の感情が湧いてこない。再び降りて、階段下の登り坂の車道を右に上がると、そこは「小山台遺跡公園」で、縄文遺跡の発掘跡地の公園だった。南側には気分のよい眺望が広がっている。下に黒目川を見て対岸に東久留米駅周辺が見える。
 参道の階段、左右に覆い被さる鬱蒼とした樹木の太古の暗がりに比べて、この縄文遺跡の丘の明るさはなんだろう。八ヶ岳の尖石のある崖と、その上の舌状台地のような関係。……子ノ神社と縄文は繋がってる……

 自宅に戻ってからネットで子ノ神社について調べていくと、原始・古代の渦に巻き込まれてしまった……子どもの頃、畑で縄文土器の欠片を集めるのが趣味で学生社刊の藤森栄一の本を読むようなアマチュア考古ファンだったし……(^^ゞ)次から次へと検索していくネットの旅に答えは出なかったけれど、時空を超える旅は楽しかった。

黒目川の子ノ神社について記述のあるサイトのページは以下の通り

子ノ神社
子ノ神社は、南沢氷川神社神職が兼任して務める十社の氏神様のひとつ

緑と湧水の里 東久留米総鎮守
南沢氷川神社

「小山・金山コース=丘のこみち」の主な見どころ
(3) 小山緑地保全地域と子ノ神社・小山台遺跡公園

東久留米市近郊の名所
9)子ノ神社(小山)@知り合いのストロンガーさん

 由緒の書かれた看板を読む。

 子ノ神社略記
 ……文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ……神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子(ね)を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり……大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして……創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、三百石を賜り小山村の地頭となった。……

 文禄元年(1592)に建立・神社化した、となると、天正18年(1590)8月に関東・江戸に移し替えとなってやってきた徳川家康の影響が思い浮かぶ。豊臣秀吉が小田原攻めをして北条氏を滅ぼし、その北条氏の遺領を与えるという形で徳川家康は江戸にやってきている。北条氏に仕えていたとされる矢部氏は北条氏とともに滅亡したのかもしれないが、落ち延びて小山村に居住し、のちに氏族を再興した、のかもしれない。あるいは、北条に仕えた氏族の一部は徳川に付き、矢部氏は徳川の命で別の場所に移住させらた、のかもしれない。
 徳川がやってくる前の矢部氏の所在地は不明だ。子ノ神社由緒では「相模三浦氏の子孫」となっていて、鎌倉時代への時の遡りを示唆している。場所は三浦半島や相模ではなく、相模原、だろう。相模原市には鎌倉時代の矢部氏の居館の土塁跡が残されている(横浜線矢部駅北口から真っ直ぐ境川の方向)。鎌倉の矢部氏と、徳川の世の始めに黒目川の子ノ神社を建立した矢部氏は、同じ矢部氏だろうか。

相模原市の太平記

矢部良兼は横山党の武士で1213年5月和田合戦に参加して、他の横山党の武士と共に討ち死にしたそうです。

横山党
八王子市横山の地名にもなった横山氏。
元は、小野妹子、小野道風、小野小町等を
排出した 小野氏が名前を変えた1族。

 相模原に居た鎌倉時代の矢部氏は横山党の武士だったようだ。横山党は、平安時代末から鎌倉、室町時代にかけて武蔵国を中心に勢力を持った同族武士団「武蔵七党」の一つ。また、八王子北条氏は、相模原を含めて多摩から武蔵まで、広範囲の影響力があり、かつ、小田原北条氏よりも古層の結集力を持っていたと思われる。

 黒目川小山村の矢部氏が八王子の横山党の一員だとすると、相模原と黒目川(東久留米)の遠い距離も近く感じられる。
 以下のサイトには矢部氏と横山党の関係が書かれており、さらに矢部氏の居た土地、その土地がどうなったかが書かれている。

境川

「平安時代末期〜鎌倉時代初期に多摩から武蔵にかけて勢力を誇った武士団、横山党の一族」
「このあたり(神奈川県相模原市、旧相模国)は矢部氏が治めていたところということで「矢部」の地名が付いていますが、実は相模国と武蔵国を分ける境界という意味で名付けられた「境川」の、武蔵国側である東京都町田市内にも同じく「矢部」という地名があります。なぜでしょう?

(略)

 1594年(文禄3年)の太閤検地で、現在の境川が相模国と武蔵国を分ける境界として定められたため、今まで1つの集落であったものが、川を境に違う国の別の集落になるという、住民の生活圏を無視したいびつなものになってしまった」

「神奈川県相模原市矢部」と「東京都町田市矢部町」が存在する。同様に「東京都町田市小山町」と「神奈川県相模原市小山」も存在する。黒目川子ノ神社付近が「小山村」と言われていたのは前に記した通りだ。

 境川流域に住んでいた矢部氏の一部は北条滅亡後、徳川の命で(あるいは逃れて)、黒目川の左岸に移り、そして子ノ神社を建てた、こんなふうに考えてみた。
 では、なぜ、矢部氏は子ノ神社を建てたのか? それで境川について調べていくと、川の近くに「子ノ神社」があり(浅間神社も)、その神社の近くには縄文遺跡が存在する。境川は小さな川だが、台地からの湧き水が豊富で、途中の流路が蛇行していて洪水もたびたび起きたという。これは黒目川と同じ特徴を持っているのだ。

公所 アクタ川と神の岡(じっくり版)

 矢部氏、子ノ神社、縄文、川。これらの特徴の一致は偶然とは思えない。
 何かある。
 こうして、子ノ神社を巡る仮想の旅が始まった。

Posted by gont at 2005年06月08日 07:01 | TrackBack