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2006年08月19日

「死者の民主主義」を巡る断想

[ 6-断 想 ]

 昨今の靖国問題は、国家と個人の生死の結び目がどのようにあるか、という問題だと思う。死者に語らせることで現世に影響力を行使する方法は、宗教的なやり方であり、政教分離にはなっていない。そこで自分は「死者の民主主義」という言葉を思いだした。
 「死者の民主主義」という言葉の意味は、ギルバート・ケイス・チェスタトンのそれとは違って、生者を否定する悪い意味として使っている。チェスタトンは『正統とは何か』で、伝統、先例主義のことをして「死者の民主主義」と述べている。

 日本に置き直せば、今在る自分の存在が歴史的存在であるならば、死者の礎の上に自らが建てられていることは間違いなく、自己同一性は祖霊の集合体とその儀礼一式によって担保されるわけだ、なるほど、ここまでは正しい。しかし、死者の民主主義は常に過去に向かった権力の集中が行われるのであって、過去の誰か、あるいは過去の事象に集中した権力を生者に折り返すその仕方、時制を超えた力の分配の法が立てられていることと、その扱いが正しくなければ、現世の権力者の権力(生殺与奪の力と言ってもいいが)を強く補うという役割でしかなくなる。ここで言っているのは、宗教的な力の源泉とは何か、霊魂の力の経済学だ。この権力を正しく総べる存在は現在、日本に不在である。いや、かつてあったかというと、なかった。それを天皇とする人もいるかもしれないが、それは戦中に行われた特殊な儀礼であり、本来の死者儀礼、葬送儀礼というのは、民族的ではなく民俗的であり、国家的ではなく地域的であり、市民的ではなく家族的・地縁的・血縁的なものだった。日本という国家や、特定の組織が、個々の命を集合的に扱うことに関して、自分は否定的であるけれど、それを保留しても、日本には死者を扱う儀礼も、その権威も、喪失している。なぜか? あの戦争に負け、多くの者が死んで、すべてがうやむや、無責任なままで、打ちひしがれ、あるいは忘れるため、経済戦争で勝利するため、これまで来てしまっているからだ。誰かが戦中の特別な力を破棄したくない、放棄したくないがため、ご破算にすることができないでいるのかもしれない。責任を追及する時、特定の者をスケープゴートにして、葬りさることはできず、ゆえに、罪と罰のグラデーションが生まれるわけだけど、何が罪で何が罪でないか、それは、我らが国民が決める部分と、国際社会が決めることと、弁別すべきだと思う。このことについては、ここでは書かない。
 
 「死者の票を生者が受け取って、現在と未来において行使するな」、この立場は崩すことができない。その理由の一つは前に書いた。票を正しく扱う儀礼含む法が正しく立てられていないし、それを執り行う人間もまたいないからだ。個人的には、そんな法は不要だし、法の執行者も不要だ、というか止めてくれ、オレに対しては。
 もう一つは、未来時制より過去時制のほうが、影響力が強いからだ。過去には具体的な誰それが存在しているが、未来はまだ誰が出てくるか分からない。ありもしない未来より、確実に存在した過去の言うことが正しい、と。だが、それが高じると、未来さえも過去へと送り込まれる。現在に生きる人間が未来の価値の先物取引をして、それを過去に献上してどうなるというのか。過去に固執するということは、暗い未来しか思い描けないからだ、だから過去を賛美する。未来がどうなろうが知ったことではない、過去の権威を担いで、その高みから現在へと権力を備給できていればよい、と。そんな人間は過去も未来も喰いものにしている。

 「過去の戦争で亡くなった方の尊い犠牲のうえに現在が成り立っている」という言い方には、トリックがある。過去のああした「悲惨このうえない犠牲」がなければ、もっと良い現在があったかもしれないからだ。つまり、「尊い」という言い方には、ああした「死に方」が「正しかった」ということ、そのような「死」を奨励している面が見てとれる。それぞれの個人が究極的に犠牲を選びとらざるを得なかったことは確かかもしれないが、それを強いるというのはどういうことだ? 能動的に行われた犠牲もあっただろう、それについては立派な覚悟であると思うけど、それを強制することなどはできないし、それは殺人でしかないのだ。死んだのではない、殺されたのだ。なぜそれを隠すのだ? 死んだことが無意味だったのか? 無意味な死だったのか? そんなことは認められない! その通りだ。無意味な死、残酷な死をもたらした者や組織や機能を断罪するまでは死ぬに死ねない、たとえ神として祀られようとも。その怨念を封じるための蓋などいらぬ。だが…死者は語れない。そこには、断念と無念が在るのみなのだ。
 「公のために死す」「殉職」「国家の礎となって」……よかろう、それを言うならば、私利私欲を貪る亡者で溢れるこの現在の国家を「個々の生に値する存在」にしようと努力してくれたまえ、「公」というのは「公平」ということだ。少なくとも腐れ為政者の現世のために我が命を犠牲にする気など毛頭ないと言っておくし、現在だけでなく「現世の借金のために売り飛ばしてしまった未来を買い戻したらどうだ」と言いたい。過去の栄華や栄光を買い戻すために未来を売った者たち、明日起きると枕元に死神が座っているかもしれない者たち、現在のために殺されかけている未来からの使者=死者は、黙して語らないが、この国の未来の心臓を掴んでいる。
「現在の生者の民主主義」「死者の民主主義」があるならば「ありうべき未来からの使者の民主主義」もあるはずだし、かつて、「死者の民主主義」は「未来の民主主義への橋渡しのために現世を抑制する」ためにあったはずだ。それがない今は、厳粛に「死者の民主主義」を否定しておきたいし、「ありうべき未来からの使者の民主主義」を構想したい、構想するだけで罪人扱いされかねないこの世の中で。
(ちなみに「ありうべき未来からの使者の民主主義」のために過去も現在をも否定する仕方は、破綻した左巻きの社会革命理論でもある。その源泉は、ユダヤ教やキリスト教にあるし、生死の観念にはさまざまなバリエーションがあるし、それは個々で違っていて当然で、統一されるほうがおかしい)

Posted by gont at 2006年08月19日 10:39 | TrackBack