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[ 2-ランニング日誌 ] |
タニタの体重計を使っていて、毎日走った後に体重や体脂肪、基礎代謝量を計る。詳しく記録するところまではやっていないけれど、目安になる。経験的な感触だけど、基礎代謝量が普段よりも高い時は脚も速いようだ。もちろん体重が低い時のほうが脚が早くなるのはわかるが、低くても脚が妙に遅くて疲れているときがある。そのときは代謝量も低いのだった。基礎代謝量はエンジンの排気量みたいなもので、これが高くないと、出力そのものが低いということかもしれない。ただし、出力が高ければ速く走れるかといえば、その出力に耐えられるだけの足腰が必要なわけで、無理に飛ばせば、故障してしまう。そのバランスが難しい。
基礎代謝量というと、最近はダイエットの話でよく出てくる。ようするに運動して筋肉を作って体重を落とそう、という話。テレビの番組でも紹介されている。この番組で言われていたことと、自分の身体感覚とはズレがあるのだけど、参考までに。
速く走りたいからタイムを計る、これはわかる。しかし、基礎代謝、体重……そういう計測に何の意味があるのか。
自分の身体は自分のモノであるようでいて、実は、自分ではない。話しても言うことを聞かないからだ。馬に乗って走るのと同じだ。馬に話しても聞いてくれない。おいしい人参とかムチとか、乗ってる人の様子によって、走り方が変わるだろう。脚は自分とは別の生物である。どうやって意思を疎通させるか。まず、電気信号を人間の言葉に翻訳して「痛い」とか「暑い」という話を脳の中で行う。あるいは、数字という別の言語で話しをする。
熱っぽいかな? と思って、体温を測って、発熱がわかることがある。わかった時には、すでに熱が出ている、風邪を引いている。その間は気がつかない。主観的な印象と客観的な印象にはズレがある。
医療だってそうだ。なぜ自分が病気に罹るのかわからない。それを治す術を知っているのは医者だ。なぜ医者が自分の身体についてわかるのか? よく考えると不思議な話ではないだろうか?
自分の身体との関わりは科学的であるべきだ、と思う。科学的である、というのは、計量可能であるということであり、客観的であるということであり、それは万人が了解可能な数学の上に成り立つ共通の言語の内側にある、ということだ。自分の身体は自分とは違う言語で話しかけてくる、それがおもしろいと思う。
そのうえで……さらに……主観が大切だと思う、主観のうちに、オレの脚がいる限りにおいて……だからつまり、産業化された世界の小さな歯車をどれだけ効率よく回転させるかということと、脚の回転は、関係がない……という主張をすることにおいてのみ、脚は主観を発していると思う。
このほか、ランニングの参考情報。
ランナー(ランニング)・バイブル@Mak