2006年05月30日
サイトをビジネスブログ化する?
ビジネスブログ、というより、企業サイトのCMS化だ。企業サイトのリニューアルでは、CMSの案件が必ず出てくるだろう。
それで実際に弊社言戸堂の仕事に関係するページもCMS化(CMSの中に移植する)することにした。実験してみなければわからないことがたくさんあるはずだ。
企業サイトのCMS、といってもバックヤードはMTなので、MTだけでできることは限られてくる。後は、そこに、どんなものを組み込めるか、うまく使いこなせるか、になる。CGIのプリント文を読み込ませたり、定型文を複数箇所に表示させるのは当然。そして、技術的な問題よりも、サイトの目的に沿ってMTを特化できるか。ともあれ、当初の予定通り、GONT-PRESSの上位ディレクトリに、「正面玄関」を設置中。また、別のドメインで別サイトもやってみようと思う。
2006年05月29日
フォントの文字化けでフォントキャッシュをクリア
PostScriptのプリンタで文字化けしてしまった。前にもこんなことがあった。メモ帳を引っ張り出して調べてみると、プリンタのフォントキャッシュが壊れているようだ。
OS9.2+OKI Microline+Quarkの組み合わせ
- AdobeのソフトDownloaderを起動
- フォントキャッシュをクリア
- プリンタの再起動
これでほぼ対処可能だと思うけれど、Biblos外字が直らない場合は、プリンタフォントのプリンタへのダウンロードをやり直したほうがいいかもしれない。
- AdobeのソフトDownloaderを起動
- フォントキャッシュをクリア
- プリンタフォントディレクトリをスクリーンに表示させて文字化けするフォントを削除
- ダウンロードフォントでフォントを選択してダウンロード
(複数のフォルダの一括選択、一括ダウンロードでは、ダウンロードできないなどのエラーが出ることがある。手間はかかるけど、同じディレクトリのフォントごとにダウンロードを行ったほうがいい。時間があるなら、一個ずつがベスト?) - プリンタフォントディレクトリをスクリーンに表示させて該当フォントがダウンロードされているか確認
- プリンタの再起動
2006年05月24日
G4ドライブ換装
あれ? 半年ほどまえに取り替えたばかりなのに……ROMを認識しなくなる現象が発生した。再起動すると認識、その後はなんともない。再現性がなければ異常ではないのかもしれない。しかしどうも気になる。ROMで起動して、ノートンが使えない状況に陥ると、困ったことになる(たいてい、ピンチの時に、ピンチが重なり、手も足も出ないということが多い)。ということで、徹夜明けではあるけれど、おもむろにPower Mac G4 AGP Graphicsのドライブを換装する。あれ? 前回も徹夜明けだったような…
前に使っていたショボイCD-ROMドライブだけど、エラーがないだけ安心。その一方で、秋葉館にDVDドライブを注文する。
→ほどなくして届いたので、再び換装。バルクのDVD±R/RWドライブで6800円。
なお、G4ドライブ換装の模様は……以下のサイトを参照。ベゼルの外し方、一瞬忘れてしまい、焦ってしまいました。
2006年05月23日
「淋しくて眠れない」(「メガゾーン23」のED、歌:タケウチユカ)
たまーにですが、衝動的に聴きたくなる曲。夏が感じられると「淋しくて眠れない」というアニソンが聴きたくなる。80年代のロボットアニメOVA「メガゾーン23」のEDの曲。ストーリーはアレゲですが……。「あの曲のタイトルなんだったっけ?」としばらく忘れていたので、検索して、思い出した。
アニメの内容はうろ覚え、東京という都市が宇宙船の中にあって……みんな知らないで生活していて……この曲を聴くと、アニメのストーリーよりも、80年代当時の記憶が音とともに引き出されてくる。友人と車でデコボコの林道の長旅をしたときの暑い風の感じだったり、田舎の避暑地の旅館でバイトしてる時の休憩時間のタコ部屋の様子だとかが、音とともに、ゆっくりと覚醒する。
そう、あれは確かに、夏だった!
それで、「淋しくて眠れない」という曲について、ネットでどう思われているのか、検索してみる。
□まず、その曲はどういう曲なのか。
「メガゾーン23」ヴォーカル・コレクション [Soundtrack]/Amazon
メガゾーン23音楽資料室
80年代ど真ん中ですから、 LPやTAPEの時代の曲なんです。
□曲の評
2005/5/6「淋しくて眠れない」「で、最後、主人公の省吾がボコボコにされて
流れ出してくる「淋しくて眠れない」は絶妙です!!
渋谷の高架線?が段々と遠くなっていくラストは(゜∀゜)!イイっす。」
ストーリーはいわゆる、青春の蹉跌なんですね。若さゆえに敗北するけれど、それゆえに、夜が明ける、という。
メガゾーン23(Wikipedia)「劇中の台詞にある「今が一番いい時代」の平和な日本が」
曲とはちょっとズレルけど、劇中の台詞にひっかかったので、滞留してみる。
「今が一番いい時代」という台詞はじわりじわりと効いてくる。複数の意味が重なっているから。まず、劇中で「今が一番いい時代」と言えるのは、過去・未来の時制を知っているから言える話で、そのように超歴史的に俯瞰するような台詞が出るのは、都市を維持するコンピュータ「バハムート」からの視点だし、監督・脚本家の視点がストレートに反映されている。
次に、当時の自分としては「今が一番いい時代」と語られることに、違和感があった。単純に「青春の時がいちばんいい時代」という言い方があるけど、そのようには思えないフシがあった。今が一番いいんだって? 冗談じゃない! 当時はガキの疾風怒濤の苦しみにのたうちまわるようだった、決して戻りたくない! お気楽のようでいて、実は辛いものだ、若い時って。バブルの恩恵なんて受けてなかったし。
80年代当時の日本は、戦後の冷戦の枠組みのエアポケットになり、憲法で非戦を謳い、外部の戦争状態から干渉されることがなかった、あったとしても、肩代わりされていた。ゆえに、日本そのものが架空の都市、架空の平和だったのかもしれない。『トゥルーマン・ショー』のように、架空の街のなかで暮らせることはほんとうに幸せなのか。80年代も、そして90年代も空っぽだった、なんて言い方もあるけど、その空虚感のなかに、オタクの消費文化が花開いたともいえるわけで、仮想現実を仮想として表現できる戦争のない時代の戦争アニメを観ていられるほうが幸せなのか、とかね。このあたりの問題意識について地味に表現していたのは当時、子ども向けのアニメーションだった、当時のすべてのアニメーションの通奏低音でしたね。王様は裸だ! と、大人に向かって表現してしまうと、スポイルされてしまうけど、子どもに向けて言えば、冗談で済むわけです。ゆえに、バンダイのオモチャを売るように見せかけて、すごくポリティカルな内容を扱っていたアニメーションも多かった。それがあとに、オウムの問題へとの繋がっていくと思うのだけど、そういった意味をすべて含めて、「今が一番いい時代」と言い切れるのなら、そうに違いないし、幸せなのかもしれない。
むしろ、今こそ、ほんとうに問われるべきかも、「今が一番いい時代」か? と。
メガゾーン23「追記1・だけどメガゾーンは、そのシリーズを通して音楽はなかなか良いと思います。特にこの一作目のエンディング(「淋しくて眠れない」)は大好きです。」
作品自体の評価は最低の「E」ランク(死んでほしい)なんですけど、音楽は評価されてます(^^ゞ 作品を今観れば…おそらくは…全身掻痒感に包まれるでしょう(^^ゞ
_Vol.1151 2001/01/02 _メガゾーン23 だーーーーーーーー!! ゥ 矢作省吾「ボロボロになった矢作省吾が歩く人気のない渋谷の情景にトドメを刺される。このラストシーンは、空気の匂いまで感じさせられる。そこに被ってくるタケウチユカの歌うED「淋しくて眠れない」がその空気感にシンクロして込み上げてくるものがある」
評のその通り。タケウチユカのハスキーだけど素直で伸びのあるボーカルが、朝焼けの都市の路上の、切ないエンディングを記憶させている。「ギムレットォォオ」なんて低音の「ォォオ」の発音がしっかりしていて心地よい。このタケウチユカの声の質が、記憶のトリガーな気がするのだった。曲・編曲は鷺巣詩郎、メロディラインがきれいですよね。ところで、歌詞を改めて読むと、意味不明なイメージの羅列だったりして。「ギムレット」とか「カフェバー」とか、時代がモロに表れている。惜しげもなく、恥ずかしげもなく時代に染まり表出する、それがノスタルジーの素なのかもしれない。
遙か色に染まって「あれから20年かかってやっと見つけた曲は
メガゾーン23のEDで「淋しくて眠れない」というタイトルの曲で
ネットで調べてみると、この曲が好きだって言う人がたくさんいた
すごくうれしかった・・・」
素直な評。この曲がよいと思っている人って多いみたいです。
嗚咽その3出典:a href="http://human.2ch.net/test/read.cgi/middle/1025269753/
「今度は「メガゾーン23」のメドレー。テープ終了間際に宮里久美の「風のララバイ」が
流れて、その次にタケウチユカの「淋しくて眠れない」が流れたあたりで、
どういうわけか滂沱の泪が……。」
今回、探してみてもっとも秀逸だった「淋しくて眠れない」の記憶。
ところで、「タケウチユカ」というボーカリストは、この一曲しか知られていない。
いったい誰なんだ? ということで調べていくと、「坪倉唯子ではないか?」と質問をネットに投げている人がいた。このネタ元は2chで、ウラがとれていないようだ。名前にアナグラムが使われているわけでもないし。で、ちょっと「坪倉唯子」について調べてみると。
- ポプコン全国大会第21回と第22回(入選)に出場 (第21回グランプリは伊藤敏博と、第22回アラジン)
- 「ちびまるこちゃん」の主題歌、「踊るポンポコリン」のBBクイーンズの女性ボーカル
- 中島みゆきさんのバックボーカリスト
- テレビアニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」(制作NTV/スタジオぴえろ)の挿入歌、OVAでは主題歌「チューズ・ミー」も歌う
- 福山雅治「桜坂」にもバックで参加している
- 吉田拓郎のツアーに2006年も参加らしい
坪倉唯子さん情報参照URL:
森川美穂BBS
ヤマハのポプコン情報一覧
私的音楽日記 2006/4/16「やさしく歌って」日本のロック「ポプコンでボーカル部門地区優勝してたりと、歌い手としての実力は有る」
ちなみに、アーティストとしての評価をしているのはココだけか。いや、アニソン以外では他に音楽評ページがほとんどないし……知る人ぞ知るだからいいのかな。
作品リスト <坪倉唯子(つぼくら・ゆいこ)>「本格的なソウルシンガーとして知られる存在」
アルバムタイトルと収録曲のほとんどが網羅されている。
ともあれ、「タケウチユカ=坪倉唯子」説を検証する方法は一つ、聴き比べればいいだけ、
ダアァーーーーッ!(c)矢作省吾
いずれ聴いてみたいと思います。
Google Sitemaps
Google Sitemaps の MovableType用テンプレートがあった、今まで気づかなかったとは……
Google Sitemap
Google Sitemaps は、自サイトのURL情報一覧のようなもの(sitemap)をGoogleに送り、Googleの検索結果への反映を強化できるツールMovableType用テンプレート
Google Sitemaps using Movable Type
It's pretty easy to make an XML Sitemap of your blog for easy parsing by Google or other search engines.
2006年05月20日
XHTML 文法チェッカーで校正
<追記:06/05/21 3:33 AM>
GONT-PRESS、XHTML1.0 Transitionalとしては記述にミスが多く、問題が多かった。トップのindex.htmlだけでも訂正しておくことにする。エラーのためにIEからは別窓表示で警告され、自サイトのアクセスログもきちんととれていなかったらしい。ひどかったなぁ、反省。
Another HTML-lint gateway
HTML文書の文法をチェックし、採点します
まずはAnother HTML-lintでチェック。すると、ひどい間違いの嵐が。あ”ー、ひどい認識だ>オレ。直せ直せ、学べ学べ。何度かやって、89点、スラッシュドットのニュースを読み込んで表示しなければ90点台に。
ところが、IE6で表示してみると、紙で言うところの右の煙突、float:rightが見事に下に落ちている。えぇ……? なじょして?
ネットで検索してみると、これはIEのバグのようだ。
<?xml version="1.0" encoding="***"?>と、1行目でXML宣言するとダメなのだ、<!DOCTYPE>以前に行が入ると(後方)互換モードと解釈されて、CSSがおかしくなるのだった! そりゃないぜ。。。
XML宣言を1行目に書かなければ、レイアウト崩れは防げる。……どうするか。多くの人が使っているIEを無視するわけにはいかないし、ここは宣言をはずすことにする。それでも、Win98-IE6だと右のフローティングが落ちる。ぐはぁ、面倒だなぁ。。IE7になればなおるんだろうか……。
#XML宣言をしないのは、武士が刀を捨てるような感じがする
#なんとなく、政治的な交渉で譲歩するような嫌な気分がするのだった
じつは、XML宣言をはずさなくてもよい、IE6用後方互換モード対策がありまして、それを行えば可能なんですが(下記リンク参照)、このサイトではそこまでやり抜くだけの時間がなくて残念。
#だって、月曜納品のDTP作業がまだ残っている、
#ウェブサイトのボタンアイコンだって作らなければならないし、
#ログの取得と解析・送付のCGIを書き直す必要だってあるんだよぉお。
言い訳をしている時間があればコーディングしろ、という気もするけれど、実際にやり込んでいって、そしてギリギリのところで闘えるか、どんな仕事でもそうだけど、妥協せずにどこまで深く追えるかが重要だと思う。
今日の闘いはここまでだ、次は紙の世界で闘いがある。
ともあれ、文法チェッカーで「よくできました」がもらえなくなってしまった(T_T)
□CSSとXHTMLについてじつに参考になるサイト>感謝いたします
ADP: IE6のwidth解釈バグ対処法
世界中の1%の人々へ@蒲生トシヒロ
いい加減なIE6.0の文書型宣言
アットスタイルのブログ
□XHTMLについて
Another HTML-lint>sitemap
これらのページには目を通しませう。
□文法チェッカー
Another HTML-lint gateway
「よくできました」の花マルをもらいましょう。
W3C Markup Validation Service v0.7.2
で、文法チェックしてみる。
XML宣言をすれば、This page is Validになる。合格。でも、スラッシュドットのニュースを読み込んで表示すると×になってしまうのだった。
2006年05月16日
「テルーの唄」の作曲者は谷山浩子でした(『ゲド戦記』)
2006年7月ロードショーのアニメ『ゲド戦記』(スタジオジブリ制作、宮崎吾朗監督)で「テルーの唄」(歌:手嶌葵)を聴いていて、「どっかで聴いた節まわしだなー、昔のテレビCMで聴いたサクロンの「空に響け〜」みたいだな…」などと思っていたら、おぉ? やっぱし谷山浩子作曲だ、ドンピシャ。まさに音は「見えぬものこそ。」。。。(テルーの唄 谷山浩子 で検索されて来られる方、CDお探しでしたら、以下をどうぞ)
谷山浩子の楽曲、メロディーラインが独特。言葉の音素と楽曲の音感の配合が神秘的で極めて美しい瞬間がある(褒めすぎか?)、言葉の一言に一音が対照する、ワンフレーズでしっかり息継ぎが入るのも独特だ……。 サクロンのCM曲(20年ぐらい前の胃腸薬のCM)だって美しい。レコードに収録されてアレンジされた曲より、CMで流れた曲のほうが美しかった。当時、夏に沢登りをやっていた時、川の碧色に漬かりながら、このCM曲を頭に流していた、他の曲は、川の碧色に似合わない。なので、美しい川の色を見ると、サクロンのCMを思い出してしまう(たまに聴きたくなるけど、もうレコードもテープも無くしてしまった)。 そういや、最近、音から遠ざかっているなー…… 「少年」をとりもどすために - Taniyama-info.blog [追記]谷山浩子って誰よ? →昔風に言うと シンガーソングライター。 谷山浩子プライベート(パーソナル)ページ 年齢は20歳前後で循環しているそうだ。循環していなければ自分よりはずっと年上のはずだが…
個人的な記憶。80年代、谷山浩子はAMラジオ・LFのオールナイトニッポン第二部パーソナリティもやっていました。で、自分はハガキ職人の真似事して恥ずかしい投稿してました、高校生のときですね…(^^ゞ その後にハマってしまう「森田童子」の曲を初めて聞いたのも、谷山の番組で、でした。深夜、あまりの暗さに衝撃、な、なんだこの曲は! あれはディレクターが選曲したのだろうか? 夜の夜の夜の歌、埴谷雄高とかバタイユとか国書刊行会のドイツ・ロマン派全集の「ノヴァーリス」だとか、そういう本をイキガッテ読んでいたガキの頃の夜の話でした。
[追記]そもそもゲド戦記って? ↓
2006年05月15日
SMAPの香取慎吾がやっているオムロンのカラダスキャンのCMの「健康警察」って
気色悪いなぁ。健康警察、止めといたほうがいいと思うよ>オムロンさん
メタボリック・シンドロームという言葉も嫌な雰囲気を持ってる。将来的な医療費抑制が必要なのはわかるけど、太っているのは罪、みたいな風潮は、どうかと思う。……タバコのときもそうだったんだけど、社会が一斉に、抑圧的・排他的になっていくのはよろしくないなと思う。
グーグルブック検索
PDF化・登録手続きのコストをかけて、ブック検索経由の本の売上があがるかどうか。出版社にとっては、人のフンドシで相撲をとるのはいかがなものか、と思っている人も多いわけで、アマゾン同様、冷めた対応かもしれません。ブック検索(print)は昨年欧米で著作権絡みで問題になってましたし(図書館の本をスキャンしてガンガン登録しちゃうぞの件)、そう簡単に上手はとれないと思います。本の制作者やその周辺では、プリプレスな段階からPDF対応なわけで、何か動きがあって作業が発生しても、それなりの心構え?はできてるのかな、と。
ところで、本当のフンドシは、コンテンツそのもの、情報じゃないのかもしれないよ(ボソ
ブック検索についてはまた情報を追加予定。
最近思うのは、ロングテイルの裾野が広ければ広いほど、塵も積もればマウンテンなのはわかるけど、だからといって、塵芥が常に善意で無料とは限らない。人の善意を広く薄く集めたら、それを広く薄く返さないと。砂上の楼閣が人を監視したり情報を選別・制御するようになっちゃねぇ。
それにさ、いつでもどこでも広告モデル、目障りって表現がしっくりくることも多いわけで。
ブック検索については、個人でISBNコードとって本を出して、グーグルに登録、って方法はありなのかな? 既存の流通使わないでも本が売れるなら、それはそれでおもしろいでしょう。
2006年05月10日
MT、Rebuild でInternal Server Error
[追記06.05.10]
うぉい、頻発してるじゃん……(2)。冗談抜きにそろそろ対策を考えないと。MT3.2-UTF-8で全リビルドするか、引っ越すか? いや、その前に待て、と。
まずは、コメントでエラーが出るような状況を回避したい。
→コメントスパム用にフィルタ、とりあえずはずしてみた
次に、リビルド時にサーバエラー500が出る件、
→原因は何か=こちらに割り当てられたメモリが足りないから。
→解決方法は?=メモリを一気に喰わないように少しずつ使う
→ 一回の Rubild の page数 を少なくして、細切れにして作業させればいいんじゃね?
=(今のところ 40ページずつになっている)
→ どこで調整するんだろう?
→ MTはモジュールの塊だ、どこかにパラメータいじるところあったはず……
→ mt.cfg で EntriesPerRebuild 5 とする(40→5になる)
まだいじれるところがたくさんある、HACK用テクストを手にいれよう……時間あるときにあれこれ改造するのっておもしろい、つか、勉強しなくちゃ。
それに、個別ページの記述が気にいらないんだよね、使いにくいし、遷移しにくいし。「16進数カラーチャート」なんて古くて使えないから削除。もっと使いやすいように、わかりやすいようにしなくちゃ。仕事用のページも直したい。やることは山ほどあるのだった……
やりたいと思うことが山ほどあるのは楽しいことだ!
[2006-03-01 17:42:16]
Perlに割り当てられたメモリと空きのディスクスペースの問題だな。。
一度、メモリについては、ホスティング屋さんに頼み込んで
設定をいじってもらったんだが……
共有サーバだし、もともとCMS用ではなかったから、仕方ないかもね。
古いエントリを削除するのが今のところ無難な対応かもしれないけれど、
Version 2.66を消去して、UTF-8なMT3にするか
(既存のエントリは文字コードの問題があって、「再構築」となると面倒な作業が必要だけど、それも一括して、CGIを書いて自動的にやらせる、ということもできないこともないか)
2006年05月08日
コレクションと記憶と
[追記060508]
・フジテレビ、「YouTube」的な動画投稿サイトに参入
http://c01.wx0.net/?c=33351&m=1979&h=d50c3e111a (ITMedia)
→盛り上げるきっかけとして「お目こぼし」が必要ですね。米のように違法動画満載も放置?
映像コンテンツの価値ってなんだろうね。ホームビデオの映像では盛り上がらない。昔のテレビがおもしろかったのは、映像の記憶の共有が時代の経験と記憶の共有財産だったから。個々バラバラの生活のなかで、映像コンテンツを中心にして、何かを共有していく仕組みができるならおもしろいけれど、それを、「川上」から配信してビジネスにするような垂直モデルでは、うまくいかないだろうね。
HDD録画…外出先から録画したテレビ番組の映像コンテンツが観られます、なんてやってるけどさ、そんなにテレビ観たい? テレビ番組の録画なんて馬鹿らしいなぁ、と思う。時間潰しにはいいのかもしれないけどさ、あの中古映像コンテンツは売買できないわけで。本と違ってね。だまされてると思うよ、企業に。
今まで誰も見たことがない世界を知る、それを記憶する、それが人にとってよいものだと思ったら知らせる、そのほうが、贅沢で有益で楽しいことだと思うよ。
…なんて思っていたのだけど、本も変わらないな、後で読まないで増えていくだけだし。参照されることも少ないし。場所をとるし、アクセスしにくいし。結局、その人にとって必要だと思える情報(コト)やフェティッシュなモノだけが残って、あとは消えていくんだろう。
ゴミ問題と家庭内暴力
山に持っていった食糧のゴミを家に持ち帰った。途中で捨てることができない。上高地でも、途中の高速道路のサービスエリアでも、JRなどの駅でも、ゴミを捨てるのがためらわれる。それで、すべて持ち帰って、分別して、捨てた。それで思ったのは、外に捨てられない何かが、すべて家庭に持ち込まれるようになって問題が起こっていないかどうか、だ。それがなんらかの心理的な問題に繋がっていないか、ということ。本来、公共の問題であるものが、すべて私的な問題にすり替えられて、押しつけられて処理されていないかどうか、そういう話だ。
高速道路に家庭ゴミが捨てられて困っているという。休みに中央道のサービスエリアに入ったら、報道されていた「ゴミを捨てるな」の看板が出ていた。確かに、家庭ゴミをわざわざ捨てに来るのは問題だろう。だけど家庭ゴミのほとんどは企業が作った過剰包装から出たゴミなのであって、よく考えれば、家庭ゴミではなくて、企業ゴミだろう。過剰包装の上乗せ価格を支払ってモノを購入し、ゴミ処理の税金を支払って自宅にゴミを持ち帰ってゴミを捨てるというのは、なんとも理不尽だ。消費者のすべてが過剰包装を望んでいるわけではないのに。飲料水の自動販売機には必ずボトルを捨てるゴミ箱が併設されているわけで、何かを販売している場所では、それを回収するゴミ箱も用意すべきだ。テロ対策だからといって、JRなどの駅にゴミ箱がないのは困る。なぜなら、モノを販売して、ゴミも発生させているからだ。
本来、全体のシステムの問題なのに、それを部分の個の部分で処理させるという、民営化の弊害が、さまざまな分野で問題を引き起こしていないだろうか? 家庭・家族を巡る暴力などもまた、こうした社会的問題の個的な家族問題へのすり替えのような気がしてならない。本来、外部との軋轢で生じる葛藤や抑圧の処理が家族の内側で爆発する、ということ。最近の家族を巡る暴力事件を見ていると、なんとなく、ゴミ問題と通底しているように感じられるのだった。そして、こうした内的な問題の圧力を全体として外化してガス抜きするシステムが、国家には内在している。その奇妙なカラクリについて、しばらく注視しようと思う。
2006年05月02日
散逸する過去ログ
昔の山登りの記録htmlや駄文が出てきたので、意味もなく連続アップしてしまった。それについて思う。
恥ずかしい駄文については、ネットでよく言われているように「チラシの裏にでも書いてろ」(そんなもんは人に読ませるな)という意見はごもっともだと思う。アップしたのは、たまに過去の自分を見て、恥じ入るのもいいかな、と。歳をとればとるほど、どうでもいいことでエラソウに振る舞ったりするらしいからね。
山についての話も、手元に残しているはずだけど散逸している。探せばあると思うんだけど、たぶん、実際に探すことはない。引っ越しでもしない限り。テキストファイルは「消えやすい」…HDに残しておいても、マシンを乗り換えたりする時に、消えていく。 消えていくファイルは消える。それが価値あるかどうかは別として(他人には価値がないことが多い)、消えるファイルは生きているファイルなのかもしれない。
『天空の城ラピュタ』を観る-トビイシの砂漠-「飛び去るオブジェクト」を追って
1997.10.05に掲載した「黒曜石の鏃を拾ったなら……『もののけ姫』の絶望と希望」を改稿。アニメーション作家・監督である宮崎駿氏の作品『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』に見られる「飛び去るオブジェクト」を追って行き着く世界は。
>飛び去ったまま行方不明になるオブジェクト
鈍く光る黒曜石の鏃が縄文人の絞る弓から放たれた姿を見た者はいない。
発掘調査のトレンチから出土した遺物によって推し量られる前に、縄文人は、永らく物語に住んでいた。天上界の戦で流れた矢が墜ちてきたものだとされる鏃は『日本書紀』に、巨大な足跡であるとか尿の池を残して土地を去ったと言われる巨人ディダラボッチ、デイダラ法師は、各地の風土記に、といったぐあいに縄文人の痕跡は、物語のなかにあらかじめ埋め込まれていて、ついこの間まで語り継がれていた。縄文土器のことを「管狐」と呼んで、狐が化けたものだとして忌避していた信州・八ヶ岳の麓では、ディダラボッチの伝説も色濃く残っていた。
一方、都市およびその近郊では、たとえば縄文土器の破片や黒曜石の鏃が冬の畑にいつもころがっていたはずだけど、それらについて語る者はいつのまにかいなくなっていた。それが数千年も前の人が使った道具であり、沖積世と洪積世の狭間に人が生きて在った証拠だ、という物語に回収されたのはここ一〇〇年あまりのことだ。戦後の高度成長期の末期、失われた世界が各地で露出する。たとえば山梨県甲斐駒ヶ岳山頂にあった無文土器片。標高2966m、日本最高所における縄文時代の遺物はいまだ謎に包まれたままだ(「季刊 考古学63号 特集 山の考古学」)。郊外の新興住宅地の宅地造成は、歴史のゼネラルサーベイともいえる力技で数千年の時層をまぜっかえし、雑木林や畑という歴史しかもたない土地に、数千年前の出自を示した。それは同時に、物語に住まうモノたちに、新しい家の建て前餅を配る作業でもあった。縄文に限らず、発掘された歴史的事実はすでに死んでいて、地域活性化であるとか村おこしという物語のなかで使役される運命にある。彼らは列島改造よりも早く目覚めて餅も食べずに、自らにふさわしい場に赴いたように思う。
巨人の物語は現在、ゴジラやウルトラマンとして子どもにも大人にも知られているが、現代的巨人像もまた、現れては去っていく運命にある。ディダラボッチと直接にはなんら関係がないのだが、これほどまでに消え去る巨人伝説がはびこった時代は、巨人が物語のなかに封じ込められた時代と現代以外にはないだろう。痕跡だけを留めて姿を消す巨大オブジェクトが挟みこまれた物語は、ディダラボッチを祖先として連綿と生き残っている。日本の歴史の活断層ともいえるモチーフ素は世界をリロードして、私たちを遺して消える。たとえば、民話の竜の子太郎は湖を干拓して母竜とともに北へ流れ下った。そして現在、腐りかかった湖を決壊させるオブジェクトが再び現れた。なにが起こるというのか。簡単には解消できない対立する二項や媒介する三項をあぶりだし、原初の宇宙である巨人の死、その屍体から発生する食物(植物・穀物)といった神話から演繹することもできる。だが、これからたどろうとするアニメーション作品に物語分析をほどこして、この文化を生み出した人間世界のアイデンティティを同定したときには、物語の力は手元から逃れてしまう。木の葉のざわめきを指して風そのものと言うに等しい。観察者は風を感じ、風に乗り、風に運ばれて見知らぬ場所に着地する。飛び去るオブジェクトを追いながら、自らにふさわしいリアルな大地に着地したかどうか、し得るのかどうか、それなら探ることができる。
宮崎駿監督の『もののけ姫』には、飛び去ったまま行方不明になるオブジェクト、シシ神が登場する。「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明監督)は、作品自体が行方不明になって主人公が取り残されるというアクロバットを見せた。ここでは、宮崎駿監督の作品を二つほどとりあげて、飛び去るオブジェクトを追ってみたい。先行作品『天空の城ラピュタ』の巨大飛行石はまさに飛び去るオブジェクトの代表だろう。成層圏を漂うクラゲ状のお化けは、昼も夜も人間の上にあって留まっているように見えるが、誰もその姿を見た者はいない。
>飛行石、彼方の希望
宮崎駿監督作品のファンの間でラピュタの評価は分かれている。優れた冒険活劇として評価される一方で、物語が終わりに近づくにつれて消化不良を起こすような気分にもなる。生の躍動感や爽快感を求めたファンの期待が物語の最後まで持続しなかったのかもしれない。たとえば、パズーにもシータにも、ラピュタと飛行石の謎を追い求める決定的な動機や感情に欠けている、とされる(「徹底討論「宮崎駿」とは何だったのか?」『宮崎駿の世界』ユリイカ臨時増刊号、青土社、1997.8.25)。ドーラ一家の血湧き肉踊る冒険活劇があってもなお、なんとなく、おはなし全体が静かで寂しげであり、主人公の少年パズーやヒロインのシータが地上に戻る姿に哀しみを感じるのだ。静けさに満たされたラピュタは空飛ぶ墓標だった。あらかじめすべてが終わっている世界、滅びを加速させるためだけの物語進行、どことなくはかなげな結末。父親の汚名を雪ごうという少年パズー、出自の謎を知らんとする少女シータ。どちらの動機もまた、自らの世界を未来に拓くものではなく、とりまく世界からあらかじめ刻印されている徴を払い去るための旅、過去への旅であり、幼年期清算のための弔いの儀式、だった。『天空の城ラピュタ』は、冒険物語は現代に可能か、普通の少年が冒険を経て大人になれるか、という問題意識から立ち上がった作品だとされるが、その冒険とはつまり、家族幻想を維持する力を破壊する通過儀礼のことだった。
物語は家族のイメージに彩られている。母は天蓋を覆う大樹、家のように眠っていた。父は母の家を守る心やさしいロボット。かつては帝国であった壮大な空の城も今では、小動物と庭園に囲まれて慎ましく暮らしている、子どもたちの巣立ったあとの夫婦の世界と同じだ。かつては大いなる力が宿っていたに違いない。大樹という母の家、そこを守りつつあるいは守るために外の世界で闘う父の構図は、大家族の遺制あるいは第一次核家族の姿、戦後の日本的家族の理想であった姿にも重なってくる。独り家を守り子を育てる母、ひたすら働く父の姿。ラピュタはこうした家族の残骸であり、古さびていく家庭、都市の周囲を浮遊する墓所だと言うこともできるだろう。
映画の最初でラピュタ人が地上に降り立った起源が示されるが、地下から飛行石を含んだ鉱石を引き揚げるために空の風を利用しているのがわかる。その意味で、飛行石の結晶は風の力の結晶であり、天と地下が人間という地上の存在によって和解したひとつの理想、ムスカの言う「人類の夢」だ。風を生み出す永久機関は、地上で自然の恵みを受けずに生きることが可能なユートピアを造り出す力を秘めてはいるが、その強大な力を統御するために人間を不安の秩序に縛り付ける。原子力発電所での作業のように、複雑なシステムを何重にも張り巡らせ常に監視する軍隊のような組織化された人間世界は、もはや何もできないまま衰退するほかない。地上での苦しい生活から自由になったラピュタ人は同時に、飛行石の力の統御を司る「お釜」を維持するために自由を失う。ラピュタ人たちはそうした生活を破棄して、もう一度、地上で生きることを決意したはずだった。その時点で、ラピュタも飛行石も破壊されなかったのは、ラピュタ人が地上での生活に失敗したときに自動的に発動する滅びのプログラムであったのかもしれない。ロボットの一人が郊外の畑に失墜して発見される。それが物語の発端だとしたら、そのロボットの失墜は始めから意図されていたのだ。プログラムはムスカという男に憑いて作動し始めるが王の末裔である彼自身もそのことに自覚的である。彼があらゆる人間を信用しないのは、何者かに操られてきた自らの歴史と手を切り、ラピュタ自体をも裏切るためなのだ。彼自身の目的は、巨大飛行石を操り世界を支配することにあったので、その意図を飛行石自体に知られないように家族物語の再演でもって偽装する。そのためにシータを手元に置き、しばらくしたのちに殺す予定だった。玉座の間でシータのお下げ髪が銃弾に切り裂かれるモチーフは映画のなかで繰り返し表わされている。シータのお下げ髪を触るムスカ、引っ張る兵隊は、明かに髪に敵意をもっている。その敵意は、大樹に対するそれと同じものだ。地下・地上・天上を結び、永久に生き続ける生命の源としての大樹、自然の永久機関への嫉妬であり、それを殺して真に男性的な永久器官を人間の上に据え付けることこそ、彼の目的なのだ。人間の植物的部分にして風を感じる器官を失ったシータは、そのとき、逃げるのを止める。古き人間の呪縛は地上において解かれなかった、シータ=リュシータ王女は人間に裁きを下し、バルス・プログラムを発動する。王の身体亡きあとの墓所で、王の頭脳とともにこの世界は終わりを告げるのだ。シータの死によって、母たる大樹と交わったオイディプス王、あるいは「生命の輝く顔」を直に見てしまったムスカは眼を失う。墓所の幻想は破壊された。王として死んだシータを救い出すことは、ラピュタを求めていたムスカと同じ古き父の幻想からパズーが抜け出す唯一の方法に違いない。そして個と個が生まれ、物語は終幕を迎える。
パズーやシータが地上に近づけば、大樹と寂しいロボットは巨大飛行石に乗って空高く舞い上がっていく。天は神話的な死、受けとめ難い理不尽な死を回収する物語を暗示する。『紅の豚』で仰いだ蒼空には非業な死を遂げた者たちの飛行機が群をなして飛ぶ。理想のまえに潰えた父と母は、子どもたちを喪主として今やはっきりと天上に葬られた。バルスという言葉は、父母への正式な弔辞であり、産業社会に支えられた古き家族からの離脱を実行する滅びのプログラムであり、その産業を成り立たせた自然を人間から自由にする解放のプログラムだった。だが、それは大団円、なのだろうか。
あの呪文によって、シータやパズーの住まう地上も人間から解放されてしまったのではないか。地上の「お釜」的なるものすべてが破壊されているとしたら、地上に降り立つことなどできないのだ。登場したキャラクタの誰もが、物語の終幕で地上にしっかりと降り立ったとは示されていない。あたかも、降り立つことを周到に避けるかのように。パズーとシータが地上に戻ったとしても、現実はなにも変わってはいない。「土から離れては生きられない」と強引にシータに言わせたとしても、農耕は産業の一形態として貶められ、鉱山での労働は飢餓と絶望のうちにある。スクラップ同然で地上に墜ちてきた父たるロボットは、燃えさかる炎のなかで人間を守りながらも人間によって殺され、阿鼻叫喚のただなかで遺棄された(まるでバタイユの父のように)。それが新しい人間の地上における運命であったとしたら人間は天と地の間に、あるいは地下に逃れるだろう。ドーラ一家が地上で生きようとせず天と地の間に浮遊し続けるのは、人間の住まうこの地上が「腐海」のように汚染されているどころか、人間自身が胞子なのかもしれないという恐れを抱いているからに違いない。天上と地上の間で、道具を操ることでかろうじて動的な安定を維持する飛行士としての世界が新たな人間世界なのである。そして、この世界は、空中に浮遊するラピュタと同じであり、物語は天上と地上を繋ぐ飛行石を求めて始めに戻らざるを得ないのだ。
ラピュタを捨て、古き家も捨てて地上で生きるのなら、ラピュタもろとも飛行石も完全に破壊しなければならないだろう。「お釜」や大樹や飛行石の残骸が地上に降り注ぎ、世界は一度燃やしつくされ、大樹の木片が知られざる大地の片隅で新しく芽を吹く、古き地上世界の死が訪れ、その片隅で生まれた新しい命とともに人間も生きていく、そんな映画版『風の谷のナウシカ』に似た結末が必要になる。それをしなかった宮崎駿監督は、生命の源であると同時に死を運ぶ「核」としての飛行石を温存したといえる。今、ここで飛行石を爆破しても、その爆風は生命の風ではなく、死の嵐となってこの地上に吹き荒れるからだ。超高高度を保ち、すべての人間をその視野に治めた巨大飛行石は、その下で人間たちが共生可能かどうか、見張っている。そして、うまくいかないときは、裁きを下すために、自ら崩壊して死の嵐を地上に吹き付ける。コミック版『風の谷のナウシカ』のオーマのように、風の司のもとで裁きを下す者として育ち、風の司が倒れたときは、世界は燃やしつくされると黙示した。
そのような災禍の危険があっても、なおも飛行石を温存したのは、地上で泣き続ける孤児たちを空中に引き揚げ、出会わせるためだ。あるいは、天使が地上に激突するまえに受け止めるため、あるいは、地下に残された労働者たちを待たせないためだ。空から降ってきたシータを受けとめたパズーの足場は、同時に、地下の労働者たちが地上に戻るために必要だった巻上げ機の上だった。巻上げ機の蒸気の風と飛行石のペンダントは同じ力をもっている。天から降ってきた者も地下から上がってきた者も、どちらも、哀しみのうちにあり、そこには少なくとも他者を迎え受けるだけの力が必要なのだ。巨大飛行石は、もっと大きな出会いをもたらす力、パズーとシータを含めたたくさんのキャラクタたちがそれぞれ別の他者に出会うための道具として、かろうじて空に輝いている。「飛行石のもとは山の上に木をはやす力を持っている、聖なる根源・宇宙の味の素です(笑)」(「宮崎駿インタビュー 時代を超えていく通俗文化を作りたい」、『映画 天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』所収、1986.8、徳間書店)と冗談めかして答えている監督は、冒険活劇映画の舞台裏でせっせと飛行石を掘り続けていたに違いない。
そして11年後、『もののけ姫』において、巨大飛行石は破壊されたように思う。『天空の城ラピュタ』で、ラピュタ人が地上に降り立ったのが、パズーの時代より700年前だというから、ラピュタ人自身が飛行石を爆破したのだろうか。
>アシタカ、怨讐の果てに
『もののけ姫』における飛び去るオブジェクトは、「シシ神の風」である。『天空の城ラピュタ』ではなされ得なかったの巨大飛行石の破壊は、「神殺し」というモチーフで行われた。監督は中世において希望も絶望も地上に引きずり降ろしてしまい、死の嵐と生命の突風を同時に吹かせた。現代は、すでに裁きが下された後の世界となる。「シシ神の風」は一度だけ世界を吹き抜けて、もはや戻ってこない、今後、自然が人間を守り救うようなことは二度と起こらない、と断言したようにも思える。裏返せば、この地上に残された人間たちの未来に希望を託すした、といえなくもない。物語に希望を封じ込めることは、現時点では成就しえない希望を未来に延命させることでもある。これは賭けに違いない。
「神殺し」に至る人間と人間の争い、あるいは自然と人間の争いを、行方不明になるオブジェクトを通して追ってみよう。「石火矢の弾」「黒曜石の鏃」と続いて、「シシ神の頭」「シシ神の風」と連鎖して作られていく物語は、最後に、人間の希望として現れるのだろうか。
石火矢の弾の出自は暗い。猪に食い込んだ弾は、もともと人間へと放たれたものだ。人間として扱われない人間たちが人間となるための闘いのために考案した道具であり、物体化した人間への怨念である。怨念を宿した猪が祟られるのは当然であって、当事者に直接、瞬時に祟り返すことができない以上、思念の負債は、別の人間に肩代わりされることになる。最初、その負債は、東国の深山のムラ娘に来るはずだった。その流れを変えて、自分の命とそれを交換したのが、アシタカである。猪に放たれた矢、黒曜石の鏃は、アシタカの命である。
大和の民によって北に押し上げられた縄文の末裔のムラは、こうした祟り神のもたらす負債によって破産寸前であったかもしれない。アシタカはこうした思念の市場に身を投げ出したわけだ。ムラの取り決めとは別の経済関係をもつような存在は、ムラから放逐されるか、自主的に出て行かざるをえない。それは、死ぬ、ということだ。ムラの世界で生きられる限りにおいての命であり、ムラから放逐された身となっては、生物学的に生きていても死んだことと変わらない。実際、ムラの人間たちは、彼が朝、ムラを出ていった瞬間に彼が死んだと認知したことだろう。死者を引き留めないために、誰も見送らないのだ。ムラの再生のシステムとは別の交換をした者は、ムラから出ていかなければならない(この点は『天空の城ラピュタ』で、空から女の子をもらったパズーが、ドーラ一家と行動を共にして鉱山町を出るのと同じだ)。呪的・物理的に無防備なままムラの外に出たならば、「もののけの輩」となってムラとムラの間にある広大な境界線を渡って死に行くしかない。
それでもアシタカは生きる。祟り神が憑いてしまったこと、ムラの娘から再び黒曜石の鏃を受けたからだ。祟り神とは、ある思念(怨念・執念)が成就され貫徹されるまでは決して死なない、己の思念を妨げる存在をことごとく破壊しながら疾走し、荒野を焼きつくしていく存在だ。その思念は決して成就することがないゆえに、自らを焼きつくして命果てる運命にあるが、それまでは殺しても死なない。ムラの娘からもらった黒曜石の鏃は、アシタカの命を守る祈りの結晶であるとともに、大和の民への怨念も含まれた複雑な贈り物である。巨大な猪と同じように人間のムラを蹂躙していく運命が彼の死期を延長させ、加えて、ムラの娘からもらった黒曜石の鏃が彼を守り、彼自身も自らの手に宿った破壊への衝動を抑えつつ、かろうじて人間の姿をとどめる旅人となる。鏃に込められた祈りと祟り神のルサンチマンの力の拮抗。アシタカがその後、超常的な力を発揮するのはこれらの力がせめぎあっているからに違いない。もし、娘の祈りが込められていなかったら、西の果てまで火の海となっただろう。『風の谷のナウシカ』における王虫の群が暴走したように。
アシタカの希望は祟りという負債を与えた張本人にこれを返し、自分の命を取り戻すことにある。石火矢の弾の出所に至って弾を返却する、場合によっては撃ち返すつもりだったのだろう。しかし、かの地「タタラ場」では、鉄と祟りと、人間の命とが同時に「生産」されており、自分の命とそれが交換できないことをはっきりと知る。絶望。「なぜ俺は生きているのか、生かされているのか」。その意味はない。アシタカは再び死を覚悟して、サンとエボシ御前の対立を防ごうとする。死ぬことができない自分、自分を生きながらえさせるこの怨讐の力を、怨讐のぶつかり合いの仲裁の力として使用し、彼は自らの命とともに怨讐の力さえも葬ろうとした。サンにあたるはずの石火矢の弾を人間の姿をもつアシタカが受ける。それは、石火矢の弾が猪に当たる瞬間の再演だ。死に行く者しか、この石のつぶてを受けることができないはずだ。身代わり。自ら生きることを放棄しても他者を守る人間が、怨讐の力を消す、はずだった。しかし、祟り神の思念は、人の命でも贖うことができなかった。彼はシシ神によって再び生かされるし、モロ一族の狼には、人間が救うことなど簡単にできるものか、と一喝されてしまう。怨念によって緩慢に殺されていく人間、アシタカは、最初の現代人である。
アシタカは黒曜石の鏃をもののけ姫に渡す。シータが「海に捨てて」といって渡した飛行石のペンダントと同じように。アシタカは、祟られ死に行くしかないが、それでもいいと思ったということだ。死に行く者を生き返らせ、祟り神の怨讐の力さえ鎮めて眠らせるシシ神の頭も、彼には必要がなかった。
アシタカは死ぬことによって、サンとエボシ御前が象徴する二つの世界を結びつける存在、人間と自然をとりなす要石、あるいは、ほとんど絶望とさえいえる距離にはばまれた二つの世界を串刺しにする、もっとも遠いところにある鏃、となるはずだった。自らの生の領域を可能な限り他者に譲り渡して世界の背景に退くモチーフは、他者を対面させる飛行石と同じオブジェクトといえる。しかしアシタカは生を意味づけるオブジェクトをすべて明け渡すにもかかわらず、背景には退かない。退いたのはシシ神だった。シシ神だけが、人から生まれる祟り・怨讐を引き受ける。サン、エボシ御前、そしてアシタカといったすべてのキャラクタが別の他者と出会うための大地が守られた。シシ神は他性の風(プネウマ=息吹き=土くれに吹く精神の風)として世界を通り過ぎるだけの存在となる。飛行石がそうであったように。
ラピュタと同じこの結末は、ラピュタ化したこの世界でどう生きるか、の解答とはならない。人間が人間であるための闘争から生まれる怨讐を誰もがもっていて、それを投げつける手をもち、人間の誰もが受けとめきれないという結末。エボシ御前は城塞都市へと至るタタラ場を再建するだろうし、サンはエボシ御前やアシタカのいるタタラ場は襲わないかもしれないが、再び人間界を襲うだろうし、アシタカは鉄を掘るだろう。サンの意思を人間界にもちこんで四苦八苦したうえに再び旅に出、この物語を日本中に伝えるかもしれない。祟り神は各地に出没し、そのたびに各地のシシ神にあたる神は倒れるだろう。物語は成就せず、振り出しへと戻るように設定されている。
人間自身が遠くへ、はるかに遠く赴き、そして世界を変える力を携えて戻ってくるという物語を、宮崎駿監督は「シュナの旅」で描いている(『シュナの旅』宮崎駿著、1983.6.20、徳間書店)。シュナは神人の畑から麦を盗むため、自身の命を捧げるが、他者の祈りによって人間の世界に回収される。人間と自然の円環がわずかに断ち切られ、物語が完結する。飛行石やシシ神の頭を奪おうとする行為に近い。「シュナの旅」そのものを映画にすることはなかった監督は、もののけ姫ではこうした略奪の対価を人間としていかに支払いながら生きていくか、それがいかに難しいかを観客に突きつけた。神殺しによって人間は人間となったが、人間の物語は現在に閉じて円環をなし、再演され続ける。神を殺し続ける代わりに、永遠に対価を支払い続ける現在の物語が始まる。『もののけ姫』の終幕は、現在を維持するための経済の始まりであり、永劫に回帰する物語に人が耐えうるか試しているようなものだ。
>爆破された飛行石のトビイシ
「砂漠、楽なんですよ、空虚、何もないって。ほんとうの砂漠とは違うと思うんですけどね」(「対談 .VS山根貞男」前掲書、『COMICBOX』1984.5-6月号初出)と宮崎駿監督は、安易な砂漠のイメージを拒否してナウシカの舞台に腐海という森を置いたが、元々の着想では砂漠であったという。人間の自然に対する負債は返済不可能なまでに膨らんでしまい、荒野が、「砂漠」が、急速にこの地上を、人間を覆い始めているのは間違いない。人間が人間に対して被った負債、ホロコーストとヒロシマは、砂漠の最深部に打ち込まれた墓標である。その砂漠の最深部を舞台としたコミック版『風の谷のナウシカ』は、『もののけ姫』より凶暴であるが、どちらも、自らが生み出した凶暴な力が自分に折り返す覚悟を決めて、円環の物語を砂漠で敢えて続けよ、それが人間という生物の尊厳だ、という結末を用意した。それぞれの種がその尊厳を貫くのが適当なことなのか、あるいはそのような尊厳が存在するのか否かはここでは触れない。ただ、覚悟を決めても決めなくても、「生きろ」などと言われなくても、人間は最初から「砂漠」に押し出されている。再演される物語に、未来、は提示されない。
永遠に繰り返される現在が、未来に一瞬でも開かれる可能性があるとしたら、あらかじめ用意されている癒しの森の幻影を捨て、命の風を耳元で感じることだ。たとえば、飛行石を求めて龍の巣に接近する飛行船の下に一瞬臨まれる不気味な海原や、稜線を駆けるヤックルの上から見る異様な朝焼けは、繰り返し繰り返しやってくる。他者の生のために死を覚悟したアシタカが見る、供する者ない死出の旅を始める不気味な朝焼けの空には、毒を含んだ風がうなりをあげている。この物語ともいえないオープニングは人間にとって剥きだしのリアルである。生まれたときからすでに始まっていて、舞台は真っ黒な積乱雲か熱風吹きすさぶ砂漠に囲まれている。ゴールに約束のカナンはないし、ゴールという言葉さえ持ち出せない。人間と自然すべてを見渡す成層圏の視点に、「大文字の希望」のように昇り、すべての人間の自然に対する罪をあがなって、未来を受け取ることはできない。飛び去るオブジェクトの強い風が繰り返し吹いているだけなのだ。だからこそ、この風をとらえて、燃え盛る砂漠の上を低く飛ぶことだけが許されている。
アシタカはそれでも飛ぼうとはしない。サンが地上に張り付いたままだからだ。地上での苦しみを避けるために天空へ昇れないとしたら、地下に潜るかもしれない。そして、黒曜石の鏃と同様のオブジェクトを自らの内に見つけるために、掘って掘って掘り抜いて、探していくだろう。サンは巻上げ機の操作を習うだろうか。
炭坑で石炭を掘るときに、岩盤に打ち込んだツルハシやドリルの衝撃で破片が飛んできて当たることを、「トビイシ」という。裸で作業をしている炭坑夫の身体には、入れ墨のような傷跡が残る。『もののけ姫』でアシタカに刻まれた痣は、爆破された飛行石のトビイシだ。一片の黒曜石から割り出された鏃も、宮崎駿と膨大な関係者からなる制作物も、そしてツルハシを振り下ろす瞬間に飛び散るトビイシも、それぞれに痛く美しい。それらは今、地上に降り注いでいる。
ビットハンマー
>世界戦争前夜
オレのまんなかにある
火の見やぐらにあがってみれば
社会の銅鐸 緑青ふいてる
今日も今日とて檸檬の雨
あぁ爆弾よ 丸善よ
あの人は悪魔くん わたしをトリコロールにする
あいつがあいつが最初の匿名ストーカー
叩け早鐘 社会の初期化スクリプトを
02時のコンビニ前 すするカップに 吐く息白し
>明日の成分表
冬ものは処分時期の今がお気の毒
レジ係のフナミさんが言った
割引のある僕は、バーコードを通すだけにはいかない
POSにも愛嬌 きちんと値下げ後単価を
買ったのは今年全部
美しき溝の女
マッチョなすずきそのこ 茫漠たる白きうわばみ
ゴム手袋ふぇちの凍てつく鉄路
フォトショップのコマンドリファレンス
思うになぜ、「ハウス北海道」があるのに
「ハウス沖縄」がないのか
こくまろ の まろは麻呂と呼ぶのか
外税対象額1904円 外税95円 合計1999円
僕は1円のおつりにすぎない
>ワタシのミトコンドリア諸君
君はこれを読んでいるという
読まれているのではないか
なぜ疑わない?
胎内一斉放棄の日は近いと口づける者が目覚める
君の脳は アクセスしている脳は
凍った鮟鱇のようにぶちきられていた
なぜか
全館改装のため売りつくされたのだ
あの過去この過去
プロファイルされたバラバラスーパースリー
ガラクタの 過去のおもひで 打ち捨てて
奴は買った 暖かい珈琲一杯の幸せと取引した
30-50%OFFだから
君は叩き売られてお国を離れて何億里
すべてはイッツクールなパケット通信便で冷凍睡眠航法
君の過去を解凍する者はいない
読みたまえ 読む者を
>エスクワンデルの戴冠式
ネットの純真に捧ぐ我がヘリオガバルス
サイン コサイン カフェイン コカイン
罠にはまってグルになって
イラン アフガン 怒りのバイアグラ
開け ミュートマニアよ 誇大妄想を超明晰にせよ
歴史の知られざる性器に鋸を引け
鋼鉄のガールフレンドにまたがり
マクドナルニア マニュキュアの赤い軍旗を引き裂いて
轡を捨てた地下鉄のモグラどもをイブリだせ
軍資金は丸の内で熊と格闘するカラカラに追徴課税せよ
IPアドレス 抱いて死ぬにはまだ速い
ドル井戸の王 エクスワンデルに冠を!
>夜にスクロール
ねぇ君
寒いネットの海を泳いでみませんか
A! アルトー!
B! ブルトン!
C! クッキーモンスター!
ときどきpingの灯台が僕を照らしてくれる
僕は串を貫いて独りクロール スクロール
ロングロング アンチワインディングロード
西方の 狭き門に 蜘蛛の糸
かつて考えたことを 確かめに行け
壇上のアルトーは紙の海に溺れている
抱きしめるときっと君は 洗われたこともない砂塵の香りがする
それはあってあるもの に なっている
帰還
>帰還
こんな日は、人が遠くへいってしまう。
彼も彼女も、私という人も、追い払われてしまう。
怒りの曼陀羅は肩口から軋む、
寂れた遊園地の観覧車みたいだ。
言いたいことは言い得ただろうか、
言い得ぬことは言い得なかっただろうか。
夜間鉄塔の歩哨が明日に抵抗しているあいだに、
私が戻ってきてしまった。
では、行くとしようか。
なにも始まらないし終わらない日が、
また始まり、終わる。
>魂の矢に叫びの石鏃を埋め
それは、人の間に住み、弓をしぼる。
張りつめる弦は、その音色を変える。
鋼色に移りゆく人の声は蒼い叫びとなり、
空を覆う。
無数の弦に沿って張りつめられた
鋼色の天蓋は蒼い叫びに満たされる。
それは勝利する。天蓋は裂ける。
裂け目から叫びを殺すそれがやってくる。
逃れた蒼い叫びは、変移し、紅い緩慢な砂漠になる。
起立した弦は無限遠方に向かって鉛直に倒れ、
砂漠の上に黒曜石の鏃となって降り注ぐ。
人は沈み、形を変え、地下に流れる水となる。
ある日、水は砂漠に沸き立ち、再び人となり、自ら弓を張るだろう。
魂の矢に叫びの石鏃を埋め、それに放つだろう。
虹色の約束を思い出させるために。
そして、人々は人々の放った矢に刺し抜かれるだろう。
時は、星を配した天蓋を共鳴させ、人々を祝福するだろう。
砂漠の雨
>尻尾と花
生きてあることがさも得意そうに見える尻尾、そんな動きが、
気味悪く思える瞬間がある。
花が美しい、そう感じられるときもあるが、
おしつけがましい香りと猥雑な形態に顔をそむけたくなるときがある。
尻尾と花が場を私に譲らない。
岩と氷が容赦なく連続し、ひび割れ、折り重なって、
崩れ落ちたあとにできる形象のなかに居るとき、自分が気味悪く、
場違いなところに来てしまったと思う。
>居ると在る
こうして、ここに、居ること。耐え難い気分だ。
しかし自ら肯定すべきではないのか?
それでいいのではないか、と。いったい、居ることに誰の命令があるというのか、
誰の承諾を得なければならないのか。
オイディプスなのか? そんなはずはないし、ありえない。
肯定、否定にかかわらず、それは、それだけで生きて在ろうとする。
だが、在るだけ、という世界がどんなところなのか、おぼろげなイメージが浮かぶ。
あまりに辛くて、一杯の温かいコーヒーと命を交換してしまうような、そんな世界。
>自由と宙づり
居ることの耐え難さからスピンアウトして赴く、そんな独りの登攀。
登攀への脅迫か、登攀の脅迫か、脅迫のための登攀か、すべて間違いだ。
自由はどこにあるんだ。
あくまで耐え難い自己にしか戻ってくることしかできないのか。
まったく偶然、自由への意思を翻させる強制的な命令が下されるときもある。それに従って、自己は折り返される。きわめて不快に思えるこの感覚に、なにか秘密がある。
一連の感覚の時間差に逆はありえない。自同律は最大限に不快となりながら、なお、見えてくるものはいったいなんだろう。
壁に宙づりになるのと、他者に宙づりになるのと、どっちが不快だろうか。
自己と他者はあらかじめ内通しているものではないことだけは確かなようだ。
(登攀=岩を登ること、または、生きてある動き)
>街と山
街で見つからないことが山で見つからないならば、
街で見つけるよりは山で見つけよう。
山で見つかることは、街でも見つかるはずだから。
山でも街でも見つからないものは、山も街も人も繋ぐことはない。
霧で何も見えないとき、人影が目の前を横切る。
>心的エネルギーの流れ
心的エネルギーの流れがどのような表現体として現れるか、おおよその見当はついている。だがそれは、ふいにやってきて、自身を捕らえる。現在の意識とはまったく別の出自をもち、知られずに組み立てられて発現する単一の表現体が現在の意識をリセットする。その単一体の強度を高める、つまり心的エネルギーの流れの道をトレースすることは可能だが流れ自体をコントロールする、不動の場所などは存在しないように思える。
>恐怖
(岩場を)登っている最中であれば、その恐怖は、現実の岩場と自分との関係からもたらされるものだ。
しかし、まだ登っていないのであれば(つまり観念)その恐怖は、自分自身のなかにある。超克しないかぎり払拭できない恐怖。いくらトレーニングしても、幻想の自信が恐怖の扉を閉めても、恐怖は恐怖のまま残る。恐怖の底へ降りていって、恐怖の意味を身体で充分に味わえば、恐怖はいっとき、消える。だが……
>新しい感覚器官
恐怖は危険のセンサーとして抑制を生む。ウロボロスの輪の回転は臨界に達しようとする。育ててはいけない。必要なのは、危険のセンサーではなく、困難を味わう感覚器官だ。
>反動形成としての生?
死ぬよりマシだ、といっても、死と生は比較級ではない。死の否定形の生はありえない。
>希望
辛いのは、意識を組み立てている自分の、あるいは他人の観念・精神・情動的反応の複合体だ。これらに囚われてしまうのがイヤなのだ。ある観念に囚われている自分を、自分の身体性でもって破壊し、脱出し、観念から招来される世界を変えてしまう。そしてこの闘いは、希望として、未来に延長される。この希望をイメージに対象化した瞬間、希望ではなくなるのだが。
>注意
極度の緊張から解放されると、足元がふらつく。注意せよ、終了点で注意せよ。立ち止まってレストし、一歩一歩確かめて歩き出せ、お前の足はお前の足ではなくなっている。
>折り返し
「追求する人間、急激な成長をとげる人間、つかれたような人間に興味がある。そのような人間の研究をするには、自分がそうならねばならない」
(『完結された青春-中嶋正宏遺稿集』中嶋正宏著、山と渓谷社、1989年6月30日)
独りの若い登山家が書き記した言葉。
人は言葉を届けようとする、山を登ったら降りるように。
だが、なんのために?
彼をとりまくあらゆる障害、身を遠くまで引き離し、対象化する。
超越的な視野におさめるために高みを目指したのではなく、逆に見上げるために。
冬の凍てつく岩壁の下、彼の凍った身体とともにそれはあった。
人は常に折り返す、身体が折り返せなければ、別のなにかが折り返す。
褶曲する意思、命。
>戸惑い
行き詰まると途端に考え出す、さも、理性は行き詰まっていないかのように。いくつかの手を検証するとして、間に合わなければ? その戸惑いが罠だ。時間は身体をもっている。別の声が宣告する。
>リズム
生きていることが順調に思えるとき、人は、そこに不規則な新しいリズムを読む。同時に堕落の予兆を感じる。リズムは生物の特徴ではなく、もともと非生物の特徴だから。この世界には存在しなかった、新しい固有のリズムは、新しい生命と共に生まれるが、同時に、これまでのリズムの調子は狂う。
調子の悪いリズムがなにかを生かしている。
>ロープ
墜ちた命を止め、また、急激に墜ちないようにし、
命の希望を繋ぎ止める、そんな道具をロープと呼ぶ。
重力の魔に対抗できる道具、
繋がれた人同士は、これまでとは違った存在になる。
そのことを証明しえないならば、人と人の間は、宇宙のように膨張して、
エントロピーがゼロになるまで離れてしまう。
今は遠く離れた友人にこのことを話せなかったのが残念だ。
>ロープ2
ロープを繋げるにはふたつの資格がいる。
くだらない事故で相手に巻き添えにしないこと。自分は墜ちないという意思をもつこと。最低の条件だ。
一方的な、不可逆的な尊守項目。ある人はこれを「紳士的」と形容している。
>砂漠の雨
渇いてひび割れた荒地が無限に続いている。色を失った太陽がひからびて、
今にも墜ちそうだ。そして、そんなことはどうでもいいと思いながら、
ぼんやり眺めている自分がいる。
風はなく、焼けただれた匂いがかすかにして、静かだ。
それらは十把一絡げに砂漠と言われる。
倒れてみる、荒地の砂の粒子が頬に触れて心地いい。
砂地の色が黒く変わっていく。雨だ。
風が吹き、声がする。
この夢を見て目覚めてから、自分のなかで何かが確実に変わった。
意識できないところで、なにかが動いている。
チビットハンマー
>背中のように冷たい星で
夜の空にキーボードを逆さに吊るした
手の届かない光が眼に届く
後ずさりながら放たれた光が
逃げる眼にかろうじて届くのはなぜか
決して出会わないことが約束された
意味をなさない 紅いざわめきが
星の数と同じだけのキー 人を吊るす
星は人を座らせ人は星を座で見る
彼らとの婚姻が彼らを生む
星は人を地平に生みだし人は星に届かずに消える
遠ざかるバックグラウンド
砂の数と同じだけ人は背景に放射された
背中のように冷たい星で
>未来のポップアップメニュー
I have a bit set for me.
I just need one bit from me.
(やぁ、時に君、ちょっといいかい、あのことさ、
どっちなんだい、すぐに答えてほしいんだ)
西暦2000年00時00分00秒に騒ぎだす前に
ゴッホの耳がささやいた
未来
他者
どっちでもない未来
真偽は追憶の名詞
割り当てられた過去をトグル
保つために混乱する
君のアドレスに未来の耳たぶを
>架線ゴーレム
方位時針がぐるぐるとまわり未来が近づいた
夢のなかでがりがりと関数計算された言葉たちは
レゴでピラミッドをつくった
墓室には不法投棄された言葉のミイラが安置されている
近づけば近づくほど ピラミッドは巨大になり
崩れ落ちたレゴが太陽風に吹かれて舞っていた
そこは自由電子の砂漠
叫びが轟いた
架線ゴーレムが墓室から浮上する
真偽地図を踏み越えて
沈黙地平線に碇を接続し
意味の始点は波うち
架線に綱引く 無名のレゴたちをひきずったまま
漆黒に どう と 倒れる とき
方位時針は君をさす
>プログラマブル台場少年
暗室試写について<
映写機は宣言された
もし 25から28までなら
繰り返し撮影する
25コマ眼 銀塩台に立つ
26コマ眼 義眼 主語を着る
27コマ眼 破り撮られる太陽
28コマ眼 億千万の瞳哭が閉じる
そうでなければ
映写機を閉じる
繰り返し
24コマ眼に
25コマ眼のナイフが西から昇るとき
映写機に宣言する
もし 26に義眼の術語がなければ
映写機を東の太陽に開いておのおのにして
26コマ眼 黄金の時に輝く
27コマ眼 銀塩の柱に億千万の裸眼 咲く
1コマ眼をナイフに移植する
映写機を名称未設定にする
以上
>夜間鉄塔2____初めて終わり、始まる日に
言いたいことは言い得ただろうか
言い得ぬことは言い得なかっただろうか
怒りの曼陀羅は肩口から軋む
寂れた遊園地の観覧車のように
始発も終電もなく廻り続ける
偽造されたイドラの加速器から撃たれた影が
一張羅のアインシュタインの背広を裂く
螺旋痕跡群分割式は不等号で契られている
なにも始まらないし終わらない日が
また始まり、終わるまでの時間
ベージュ色の血で描く盲目の意味は
私たちの原子を砕いて渦巻く
メールシュトロームの夜間鉄塔に歩哨がひとり
針のように立つ
あなたが遠くへいってしまう日
私たちは戻ってくる
なにもかも始まりすべてが終わる日が、
初めて終わり、始まる日
私は鮮血の光となって歩哨を撃ち抜く
>畑星探査行
小さな足跡が数分で埋もれてしまう風に向かって
どこに続いているのかわからない畑は
火星の干涸びた運河の堤防
終わった命たちを土に返している
冬終わる雑木林の西の向こうへと続く畑は作物もなく
乾いた土は巻きあがって地平線は30度まで朱い
遺跡調査部会が確認したこの街の縄文遺跡分布図に
マークされていない遺跡に
越えていく台地の上に
縄文土器の破片が今日に限って散らばる
午後 曇天 ビニール袋はポケットに五枚あって
まっすぐ下を向いて歩く目のまわり 鼻の穴 口のまわりに
黒い意識は集まり 風が人を人の終わりへと
吹き流そうとする まえに
足を交互に前に置き 自分の影をたなびかせて
関節を凍らせてもなお立ち止まり
ここにはないはずの石を拾っては捨て
人は夕暮れがきたのに気がつかない
>畑星探査行-2
コンクリートデザートのひび割れた赤土に砂走り
唸る送電鉄塔下の風紋を崩して時の地平線に近づく
小さなつむじ風の向こうに 直観が先まわりする
古い時代の嗅覚が獣脂の焼ける臭いをかぎわけた
ここになければ どこにもない
そういう場所に 引き裂かれた時の破片は
5000回目の冬に 誰かを私にさせようとする
風は止まる 時もまた
夏のような氷雲が群れ集まり
鈍色の赤光をこだまさせ いずれくるだろう
目を閉じて50歩 足元に触れる
風を抜かれたささやかな欠片たち
人となるまえの 人のあとのかたちに
人となるまえの 人のあとの心が溶ける
繊維質の健康でもろい土器片は
耕耘機の刃先で新しい紋様を刻まれている
それがためにいずれ形を失う7000年の積分は
自宅の押し入れに眠っている
西方の谷を越えた台地には
1000年のニアミスで出会わなかった兄弟がいる
膝で歩くと見える 時のしじまが
ねじれた暗黒を包含するガラス片
人によって運ばれた火山の痕跡は西北からきた
虹色の爪のかけらは北の海辺からきた
私にはわかる この地がどこにつながってきたのかが
膝は知る 知らない紋様を
荒々しいアルミ酸化物に押されたささやかな縄の回転線は
人の生から切り離された沈黙に話しかけている
ありえないことはありえなかったという秘密は検証され
東へと散らばる沸騰点が近代的なビニール袋に回収された
どこにいるかわからないがいついたのかを教える
火山の痕跡の形はどこか そう問うとき
凍ったブリキの 気絶した磁気が
砂の雨を降らせはじめた
>春先のコーヒー
ファスト・フードのコーヒーを飲んだ
右隣のネクタイはアタマを抱えている
左隣のスーツはなんどもなんども
電卓を叩いては溜息をついている
右隣のネクタイは営業ツールの
パンフレットをバラバラとめくり始めた
左隣のスーツはタバコを
バカバカ吸って目をつぶっている
アタマを抱えて電卓叩いてパンフレットを開いて
タバコを吸って目をつぶって
気がついたら2000年になっていて 同じ味で
小型携帯コンロで湯を沸かして
雪洞の中はロウソクでほのかに明るくて
眼鏡が曇って
インスタントのコーヒーで春を迎えたい
それはうまいのか