2006年09月27日
ビリー・ジョエルって
昨年同様、9月は仕事が重なって、どんなに詰めてやっても、なかなか終わらない・・・で、こんな時間に起きているわけだけど、そろそろ寝よう、天気予報やってないかなと、ふとテレビをつけて見たら、フジでビリー・ジョエルの武道館コンサートの宣伝をやっている・・・コンサートの模様が映っているのだった。どの曲も一度は耳にしている、ラジオで。特別に好きだったわけでもないけど、みんないい曲だなぁ、ピアノがいいなぁ、70年代から80年代のセンシブルなアメリカだなぁ、などと、ふと思った。ただそれだけ。
美しい国の再チャレンジ
もう一回宝くじを買う権利をくれるという程度の「再チャレンジ」で、結局は胴元が儲かる仕組み、すなわち「再チャレンジ利権」を生みだしているだけであって、一度もチャンスが与えられなかった「就職氷河期・暗黒の10年」を通過してきた連中はダシに使われているだけなのだった。
政府のやり方に疑問を呈する邪魔なゴミ掃除をして美辞麗句を並べたオベンチャラ連中を従えた美しい国家では、額に汗して力在る者に貢いだ者の勝ちかもしれないが、思想信条良心行動に一切の自由がない人間が勝利したところで、奴隷が自分の繋がれた鎖を誇っているにすぎない。
ちなみに公僕が内心で何を考えようがかまわないが、妨害や強制は止めておくべきなので、試験をして再チャレンジしたほうがいいかと思うけど、飲酒運転する者は問答無用、再チャレンジは不要だと思う。
3分でゆで卵を作れないか?
レンジを使って8分でゆで卵ができるそうだけど、まだ時間がかかりすぎる。普通にお湯で茹でて、3分で、ゆで卵ができないだろうか?
これができたら、すばらしい。朝の食事が変わるだろうし、即席麺の業界にも朗報だ、ほんとうの卵が入るんだから、おいしい。サラダにもすぐに使えるし(じつはサラダを作っていて、ゆで卵を茹でる時間がかかってしまい、もっと早くできないかな、と思ったのだった)。
3分でゆで卵が作れる、簡単な調理用補助機器が作られたら、全世界が受け入れるだろう。イグノーベル賞どころではない、真に革命的な道具になる。
日本の技術のすべてをつぎ込めば、短時間でゆで卵が作れるようになると思う。熱を効率よく卵の中心部まで伝えるアイデアが……PS3なんてオモチャはどうでもいいので、全力で「高速卵ゆで器」の製造開発に邁進して欲しい。
2006年09月12日
アメリカの敗戦
アメリカは敗戦する。対テロという偽りの戦争で。そんなことはない、勝利を続けていると言うかもしれない。アメリカ人数千人に比べイラクやアフガンで十万人が死んだからか? 民間人を殺戮するのが勝利であるならばそうかもしれない。あるいは、対テロ・対帝国という憎悪の応酬によって、永遠の戦争状態、終焉のない戦争産業を維持すること自体が勝利だというのなら。
アメリカが対テロ戦争を続けていけば、テロが無くなるだろうか? 原理的にありえないし、現実として、アフガンやイラクは混迷するばかりで手に負えなくなり、テロは世界中に拡散している。勝利がありうるとすれば、それは、敵を完全に抹殺するか、それが不可能でも戦意を完全に喪失させる攻撃が必要になる。つまり、核攻撃になるだろう。
日本は核攻撃と無差別空爆を受けて無条件降伏した。特攻で体当たりするしかなくなった日本、命を究極の飛礫として相手に投げつける日本との戦いが長引けば甚大な損害が出ると判断したアメリカは、かつて、究極の兵器を使った。しかし現在の対テロ戦争のごとく、敵が国家ではなく、特定の人間の場合は、限定的に核攻撃を仕掛けることなどできない。象徴としての国家、あるいは、都市や一部地域を攻撃したとしても、全テロは防げない。いや、そのような攻撃は終末へと繋がる報復の核攻撃を呼ぶ。瓦礫と灰燼のなかで存在の絶望の唄がこだまするだけだ。
ゆえに、アメリカは敗戦する。では、他が勝利するのか? イスラム原理主義者たちが勝利したのか? していない。自爆テロに勝つも負けるもない。そもそもテロリストは徹底的に負け続けることで命の価値、人間の尊厳をとことん毀損されたところで、その命を爆弾と交換する。ようするに、勝敗の地平そのものを葬り去るために争いのテーブルそのものを破壊するのがテロだ。
アメリカに追従する日本もまた敗戦する。日本の場合はアメリカよりも深刻な状況に陥る。対テロの敗戦リスク、そしてアメリカの敗戦処理の代行で莫大な資産を取り崩すことになる。崩しやすいように、日本では政治・経済両面で改革が進んでいる。さらに、国内の経済的敗戦によって国力が削がれる。
沈みゆく帝国の渦に巻き込まれずに日本は生き残ることができるだろうか。
2006年09月07日
2006年09月06日
堀江は後攻ではない
「長い一回表が終わってようやく一回裏がやってきた」と堀江被告は言ってるらしいけど、このゲームを始めたのは堀江自身であり、一回裏ではなくて二回表、いや、九回表かもしれない。この回で逆転しなければ、ゲームは終わる。
そして、死人に口が再生する新たなゲームが始まる。
株で集めた金を売上に計上するカラクリと、派遣やパートを使って企業業績が上がって景気回復、というカラクリは、同一のものだと思う。ぷふい、これで終わると思うな。
2006年09月01日
檸檬と親子関係-ゲド戦記
切込隊長BLOG(ブログ)-俺様キングダム
『ゲド戦記』が不評のようなのに商売人根性が炸裂し興行成績は優秀な件についての考察
http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2006/08/07_061846.html
シナプスの電位的活性度は、プラスだろうがマイナスだろがかまわない、振り切れたほうが価値がある、という話。また、上記記事へのコメントにあったフレーズ。
「丸善で本の山作って上にレモンをのっけて立ち去るようなもんだ」
というのが気になった。
札束のように積み上げた本の上に、売りたい本は置かず、レモンを置いて立ち去ってしまうこと。レモンはもしかしたら石けんかもしれないが、その位置にあるだけで、香気が炸裂する。解釈は任せる、解釈させる=消費させる=共食させる=社会化させる、酷評することで作品を共同で殺してしまう、それゆえに、作品が社会のなかで聖性を帯びる、かもしれない。
どうせなら、どうしようもない作品であるべきだし、そのどうしようもなさ、が何かを引っ掛けて問いかけているのかもしれない。
たとえば、親子関係。
子どもが親を殺すという事件が続発しているわけだけど、その事件の理解しがたい唐突さと、ゲド戦記冒頭に出てくる父殺しのシーンの唐突さには、同じ空気が流れている。
「得体の知れない不吉な塊」に支配され、街を彷徨し、途中で檸檬を買って…丸善に入り、積み上げた本の上にセットする。その檸檬が大爆発することを想像している、だけではなく、実際に爆発させてしまうということ。
積み上げられた虚構の世界を破壊すること。自分の影とともに、二人で。
そう、振り切れたほうが、社会的に価値があるのだから。
このエントリを書くにあたって、参考になったブログ
さて次の企画は -Ζガンダム劇場版で見る富野と宮崎の教育観の違い
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050606/p1