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2004年04月23日

冒険は理解されない

[ 3-ランニング・登山 ]

イラクでの日本人人質問題に関して、冬山登山を喩えに持ち出して自己責任に言及する人がいたので、気になっていた。
自己責任を取らない、なんらかの冒険的行動を行う人間は社会的な悪なのか、と。
自己責任を取ったとしても、冒険は無責任な行動であって、非難されるべきなのか、と。

なんで山なんか登るの?
何かあった時に、家族を含め、あらゆる人や組織に迷惑をかけるのは間違いない。
それでも、危険な場所へ出かけて行く情熱が宿る人間がいる。
不思議なことだけど。

冒険は理解されない。

そのことについて、少し雑文を書き散らしてみる。

イラクでNGO活動、人道支援をすることには、大義名分がある。
社会に還元される何かが、必ずある。
プラスであれマイナスであれ、その行動は、何らかの社会的な枠組みの中で行われる。
評価も社会的なものだ。
国家と国民、義務と責任、国益云々の話しはそこらじゅうで言われ、語られている。
現時点で、社会的に還元される質と量を見極め、それがマイナスであるならば、批判されても仕方がないだろう。
だが、未来における価値など、誰も計量できない。
その時点では批判にさらされるだけでも、未来は違う評価を受けるかもしれない。
だから好きなようにやり、批判は受け、堂々としていればいい。
行ったことに自信があり、そこに真のプラスの価値があるのだと確信していれば。
確信が持てなければ、反省し、お詫びするなり、請求を支払い、やり方を変える。それだけだ。

人は理解できない冒険を訝しがり、それを否定する、非難する。
失敗した時は特に。

同様に迷惑をかける行動がある。冬山登山だ。
冬山登山なんて行動は何の大義もない、ただの自己満足のために行われる。
社会的でも、反社会的でもない、非社会的な行動。評価は自分自身が下す。
冒険家は困難を乗り越える人間の勇気と力を表現し、その対価を人や企業からもらって行動を続けるが、
そうでない人間もいる。なんの対価も求めず、ただ、登る人。
冬山、単独、しかも壁……冬期単独登攀となれば、ほとんど狂ってるとしか思えない。
それでも、出かけて行く人間がいる。
不思議なことだけど。

社会的存在である個人(自己)だけでは責任を負いきれないからこそ、
個人は組織を形づくり、責任を分担し、その責任の在処を決め、法となす。
組織とは、必要な機能を満たすための形に過ぎない。
上に挙げた冬山登山では、単独で登る人間は少ない。
社会的人間であればあるほど、遭難した時に被るリスクを考えてパーティを組む。
それが山岳会となり、山岳会の規約が生まれる。
遭難対策訓練への参加、山岳保険への加入義務づけ、遭難対策費のための会費納入が必要になる。
力量に見合った計画を立て、上級者がその計画を承認する仕組みも生まれる。
もし遭難したら、山岳会が自らの力で会員を救助する、そのための遭難対策マニュアルも作られる。
地元警察や消防署、自治体の協力はアテにしてはいけないし、頼ってはいけない。
公に存在する社会に迷惑をかけないで、危険な行動によって引き起こされるリスクを
お金も含めて内側で解消する、それが山岳会という機能だ。

では、山岳会に所属せず、極めて危険な冬の壁に挑んでは「いけない」のだろうか。
誰も強制的に止めることはできないが、当人を気に掛ける人は「いけない」と言ってもいいだろう。
社会的存在であると自ら認めるのであれば、当人は、思いとどまるしかない。
認めないならば、つまり、社会的存在を止めれば、行ける。
遭難しても誰も心配しない、誰も助けに行かない、誰も気づきもしない人間になれば、行くことはできる。
そうやって消えていった人もいる。どこに消えたか、それさえ知られず。
わずかな知り合いが、真の理解者だけが、それを記憶している。
助けには行ったが、助けられなかった記憶とともに。
そして自らも同じように消えるかもしれないという予感とともに、彼らもまた、挑む。

そして彼もまた、遭難するかもしれない。

冒険には、他者への責任などという概念はないのか。
ある。
単独者は次の責務を負う。決して遭難しないこと、死なないことだ。
なぜなら、危険を承知で挑む他者の遭難救助のために、駆けつけなければならない人間は、決して遭難などしてはいけないからだ。

「僕らこそ救援隊だ」

サン=テグジュペリが郵便飛行機で砂漠に不時着して死を想った時の言葉だ。
誰も助けに来られない、砂漠の真ん中で、彼は考えた。
助けられるのは自分たちではなく、自分たちが助けにいかなければならない、だから生き延びなくてはいけないのだ、と。
いったい誰を助けるのか。人間だ。その密かな、最も遠い人間に対する一方的な盟約、その責任のあり方に惹かれる。

サン=テグジュペリは仕事で遭難するのであって、社会的な存在ではあるけれど、当時の郵便飛行は宇宙飛行にも似た危険と困難が伴っていた。一種の冒険者だ。

大航海時代の商人たちも、仕事とともに命を賭けた冒険をしていた。
そこにリスクの分散と利益の配分を計る株式と保険の仕組みが生まれてきた。

冒頭で、冒険は非社会的行動だ、と書いたけれど、実際はまったく逆だろう。
徹頭徹尾、社会的行動であり、社会的であること、機能体・共同体の原点といえる。
新しい何かを発見したり、実際に試してみたりする、そのリスクを他人が肩代わりしてあげて、その結果として得た利益を配分する仕組みの元祖だ。

それでも冒険は理解されない。理解してくれる人はごく僅かだ。日本においては特に。
ビジネスの世界でも、学術の世界でも、人道支援でも、なんであれ、和を乱す者は物理的に村八分にされる。
利益をもたらさない冒険に至っては、理解どころか、初めから非難される。

何の利益ももたらさない、冬山登山に、自分は憧れていた。
一人で右往左往し、友達を誘い、断られ(当然だ)、一人で突っ込み、困難さを理解し、社会人山岳会にも入った。
周囲の山を知らない人に理解を求めることは諦めた。
理解されようなどと思ってはいけない。それは不遜なことだ。

かつて、自分が単独で冬の壁に挑もうとしたとき、ある人がこう言った。
「骨ぐらいは拾いに行ってやる、だが、オレに相談するような状態なら止めておけ」
自分は結局、行くことができなかった。
迷いがあるなら行くな、恐怖を感じるなら行くな、それは実力に見合ってない、ということだった。

今は、そんな危険な山登りは止めている。実力も、それを引き上げるトレーニングも出来てないから。
社会人山岳会は止めた。垂直の世界では他者の命をロープで託し合う存在として自分は適当ではないから。
身近な周囲との社会的存在を自認すればするほど、そうした世界から遠のいている。

では、冒険を否定するか? 否だ。自分ではできないことかもしれないが、それは否定できない。
山の冒険者たちを尊敬する。
経験に裏打ちされた自信と信念を持って行動し(それは狂信かもしれないが)、彼を通してしか見られなかった、感じられなかった世界を伝えてくれる山の冒険者を尊敬する。失敗しても成功しても、自分は賞賛を惜しまない。

不思議なことだけど、冒険は理解されない、だからこそ、冒険だと思う。

Posted by gont at 2004年04月23日 05:12 | TrackBack