2006年01月31日
自動破壊タイマーのつづき
自動破壊(機能停止・自動警告)タイマーについて、再び考えてみる。
少し古いけれど、アニメーション映画の『風の谷のナウシカ』に出てくる飛行機などのエンジンは、太古の時代の遺物として発掘されたモノを利用している、という設定になっていた。王族は何代にも渡って同じエンジンを積んだ戦闘機を相続し、戦闘機一機が国を守る象徴となっていた。エンジン内部はほとんどブラックボックスになっていて、それを修理する技術で成立していた工房都市国家まであった。それと対比されるのが、巨神兵という超テクノロジーであり、映画では大地を焦がす力を発揮するものの、ほんのわずかしか存在できず、壊れて(腐って)、破棄されるのだった。
タイマーのどこが悪い、という反論もあるだろう。
商売なんだからどんどん売って儲けるのは当然だ! なにを甘いことを、という論は、じゃあ勝手にどうぞ、なのでスルーしておいて、その他の反論を予想するとこうなる。
高齢者に向けた製品の場合、その製品の寿命を知らせたり、事故を防ぐために自動的に止めるのは必要な措置ではないだろうか。注意力が散漫となった老人が製品の安全チェックを怠れば、ちょっとしたことで事故が起こる。壊れたことに気づき、修理に出すにしても、修理費が高くなってしまうことを考えるならば、新品を購入してもらったほうが良くはないか? さらに改良された製品は結果的に安全であり、効率的であり、環境への負荷も低くなるのではないか? そういった対策をしないでいるほうが問題ではないか、と。
新しい製品のほうが使い勝手がよくて、便利で、効率がよくて、環境負荷が低いならば、それを買いたくなるだろうけれど、最初からタイマー付けておくというのは、そういう付加価値が作れないようになってしまったのかな、と思ってしまう。
タイマー付きは、新製品に魅力がないことの証明になってしまう。
そうなると、これまで使い続けてきたモノや道具をいかに大切に使い続けるか、そのほうが重要になってくる。
修理にお金がかかるのは、修理できないように作ってあるというより、人間が作らず、機械が機械を作るようになっているからだと思う。人間の手で作られたモノは、人間の手によって修理できる。機械が作ったモノはあまりに複雑になって、中がブラックボックス化する。
メカニカルの古い一眼レフカメラは職人が修理することができ、それゆえに長く使える。ネットで調べれば、一眼レフ修理サイトがたくさんあると、知り合いが教えてくれた。完全な電子式のカメラは、一度壊れてしまったら修理はほぼ絶望的なので、捨てるしかない。そんな時代に、日本のカメラメーカーのほとんどがデジタルカメラにシフトしていき、旧来のフィルムから撤退していく状況がよくわかる。
修理可能な道具やモノの制作の時代は過ぎ去り、そのようなモノづくりができない時代にいて、気に入った道具を長く使い続けるにはどうしたらいいだろう。
日本人にはモノを供養する習慣がある。モノには魂が宿ると考えているから。習慣化したのは江戸時代からかもしれないが、同業が使い古した道具を持ち寄って燃やしたり、塚に埋めたりしてきた。道具としてのモノを平気で壊したり、捨てるような考え方には、違和感がある。重要なのは使い古すということであり、それは何度も修理して、使い続けることができる、そういう道具として存在しているということなのだった。
壊れたら捨てればいい、壊れたら止めればいい、という考え方を押し進めると、「存在の安楽死」に繋がる。一部に不具合があるならば、全体そのものを消し去るという方向。老いたモノや老いた人は廃棄するという考え方。こうした考え方そのものが、一種の、思考の廃棄、ではないだろうか。問題にぶつかったら、それを解決しようとする、それが日本の技術を支えてきたと思うのだけど……
さて、再びもとに戻る。
正義は常にタイマーとともにある。ウルトラマンを見ればわかる。しかし、ウルトラマンは何かを創造しない、彼は破壊するのだ。
何が言いたいかというと、タイマー付きの道具とは、常に、兵器だということなのだ。
兵器は、敵を破壊しつつ、敵に奪われないために、自動的に消滅するのである。
自動破壊タイマー?
旧型Mac-G3の冷却ファンの調子がイマイチなので、そろそろG3を退役させようかな、と思って、昨夜、おもむろにG4への移植作業開始。
段取りを考えずおもむろに始めた時ほどうまくいかない。メールサーバ他を全部移植しようと思って格闘してみたのだけど、サーバのバージョンが合わずに断念しそうな気配。だったら、G5-OSXでやればいいじゃないですか、と自分でも思うのだけど、G5は今のところ1台しかないし、仕事のメイン機なので、これをサーバ機としては使えない。現在の仕事も重なっているので、こういう移植作業は延期にしよう。春まで待って、G5をもう一台……そんなことを考えている間に、インテル入ってきたりと、道具まわりの環境も変わってきた。
そういや、経産省は、ナショナルの暖房器の経年劣化事故をふまえて、「一定期間経たら自動的に機能を停止して使えないような製品づくり」を奨めるそうだ。
……ネットでささやかれていた「S0NYタイマー」、自動破壊タイマーを搭載するということだ。あほかいな! 昔のS0NYの製品は繊細で、荒く使っているとすぐに壊れてしまうから、そのようなタイマーがついているのではないか、などと言われていたのだけど、製品が自動的に壊れるよう推奨するっていったいどういう姿勢なんだろうね。モノを大切にしなきゃいけないこの時代に、わざと壊わして製品のライフサイクルを短くし買い換え需要を喚起だって?……どうかしてるよ。
というわけで、ファンを交換しよう! もう少し現役頼むぜ>G3
2006年01月28日
黒目川・落合川合流点から見える富士山
夕方、川の谷間に富士山が見えた。
この付近、立野川出合付近には浅間神社の小御嶽(御嶽)塚がある。
富士塚の多くは富士山が見える位置にあると思うのだけれど、この浅間神社からはさすがに見えないだろう、と思ったのだけど、やはり見えるのだ。ちょうど川の谷間に見えるのだから、ほんとうによい角度に落合川は流れていることになる……この軸線を伸ばしていったところに宝が……なんて……子どもの時はそんなことを考えたりするのが好きでした……宝の地図があって……トレジャーハンターっていいですよね、インディー・ジョーンズ博士みたいで……まずは宝を埋めた地点を記した古地図を探さないと……その地図があるという伝承はないだろうか……なんて考えるとワクワクしますね。
空を割る人たち
空に投げた小石がしばらくして自分の足もとに落ちてくる。そうしたらまた投げてみる。
今年からは特に、言いたいことを言うようにしようと思っている。世の中の事象に抗議するようなエントリーは投げたくないのだけど、仕方ない。世の中の悪に対して正義の立場から文句を言うような、そういう審問の立ち位置に自分に置いて他者を糾弾するというのは、自分が無謬であるということだけを主張したいだけであって、一種の誤魔化しだと思うことがある。しかし「これは違う」と思った時点で、その違和感を書き留めておかないと、そのうちに、何に違和感を覚えたのか、そして、言いたいと思ったことが何であったのか、を忘れてしまう。そして、手を挙げて何かを言おうとするその仕方さえわからなってしまう。手を挙げてもいないのに賛意を示したかのように扱われ何事かが決められていくポピュリズムの世の中で、自分の立ち位置を奪われないようにするには、違和感を感じた時点で小さな抵抗を示すことだと思う。「そうだ!」でも「違う!」でもいいから、手を挙げると同時に、小石を投げておく。小石を投げることが仕事ではない自分としては、個人的な(無力ともいえる)方法を使うしかないのだけれど、後悔したくない。
投げられる時は、なんであれ、投げておいたほうがいい。北朝鮮で自由な発言すれば殺されるし、中国もさして変わらない。中国はネットに繋がっているけれど、グーグルで「天安門 民主化」なんて検索しても結果は返らないように細工されている。日本であっても、会社などの組織に属していたら、当たり障りのないエントリしか投げられないだろう。自らの安全を図るために、力ある者や機関の言説に頷くだけで疑義を挟まない人が増えるだろうし、群衆の無意識が形作る言説への同質化・同調圧力がいっそう高まると思う。
寄らば大樹のポピュリズムは、大樹の中が空洞で大樹の繁る葉が偽装スクリーンであることがバレたら困るので、大樹を守るための検閲機関を強化する。誰がどこで何をどのように発言しているか、他の人と違う発言をしている者はいないか、を常時チェックする機関は、ネットであれば技術的に可能だ。少なくともメールについては、一部の組織では検閲が普通に行われていると思う。ユビキタスが張り巡らされようとしている日本では、今後、いつだって検閲が可能になっていくだろう。そして、違うことを言う人のなかで、力や権力を持つ人間は、メディアによって偽装された国民の総意によって消される(たとえばホリエとかホリエとかホリエとか。歌舞伎町のサーバを押さえられた時点で終わり)。
空だと思っていた天蓋が仮想のスクリーンで、自分の立ち位置が実は、地下の監獄、坑道の中、なんてこともあるかもしれない。カナリアたちが鳴かなくなった時、渾身の力を込めて小石を空に投げつけ、空を割る、空が割れる宮沢賢治の絵を思い浮かべながら。
2006年01月23日
偽装国家日本の耐震強度は偽装されている件
阪神・淡路大震災から11年、震災があった日の前後、地震対策特集番組がいくつかあったんだけど、そのほとんどが、耐震基準に満たない戸建住宅の、耐震補強リフォームの勧めだった。
マンションでも同じだけれど、地震の恐怖が、儲け話に利用されすぎている。
大震災で亡くなった人の多くは住宅が潰れた結果だ、というのは本当かもしれないが、現実に住宅を耐震補強するとなれば、家具の移動だけでは済まない、リフォームと同じでしばらくは引越をしたりと、たいへんな作業になる。当然、お金もかかる。
まず思うのは、個人で補強する方法の情報、その公開だと思う。古い住宅の本には、そうした補強の図面が載っていたりする。昔の人は、ちゃんとした地震対策を、自分の手で行えるようにしてあったのだ。自主的な耐震補強の方策について最初に示すべきなのに、示すこともなく、金を出して業者に任せろ、という番組のオチ。悪徳リフォーム業者がこれだけ悪事をなしているのに、肝心の情報は出さない。建築業界の提灯番組だったのだ。恐怖で人を脅して何かさせるというのは、テロと同じ手法じゃないか。
ほんとうにやるべきなのは、そんなことじゃない、人と人との繋がりをしっかりさせることだろ?
日本という国は、どこもかしこも偽装されているような気がしてくる。偽装国家日本。特に、自然の脅威をダシに人を煽り、騙すというのは、天に唾吐くのと同じだね。儲かるなら何をしてもいい、という……こういう人間たちは、すみやかに滅ぶべきだと思う、日本という国の耐震強度を増すために。
提灯明るすぎ
叩けば叩くほどホコリが出てくる、そうすると人は喜ぶらしい。だが、ホコリが出てこないと文句が出てくる。パンのみで飽きたらず、サーカスを求める市民のごとく。そして、コトの真相はどうでもよくなっていく。
某掲示板ではすでに、豊田通商事件のようにレンズの前でタマとったれや、と煽るような人もたくさんいる。おい、それは、殺人教唆だぞ。
フジテレビの日曜夜の「スタメン」という番組では、光事件(三島の小説のネタじゃんか)を引っ張り出して青酸カリで自殺するイメージと重ねたりしている。おい、それは、自殺の勧め?
そのようにホリエ氏を貶めておいてから、ヒルズの別のIT社長を引っ張り出して、ホリエ氏を擁護させて、いや、彼は大丈夫、と持ち上げるのはなぜか。フジ自身が持ってる大量のライブドア株が紙屑にならないようにとのご配慮なのでしょう。その後にセレブな子育ての企画を出して、仕事をする女性も子育てできるんだよ、早く子ども生めよ(産め、ではない)という、少子化対策偽装の配慮番組をされているし。
内閣府は、所得格差の開きがでている調査の数字的結果を無視して、そんなことはない、と。ほう、格差がなくて景気回復、増税に向けてまっしぐらですね。
まぁ、どこもかしこも提灯が明るすぎて、まぶしくて真実が見えないや。お台場の足もとだけはほの暗いですけど。
世論の殴られ屋
さて……再びホリエ氏を巡る話。
彼を使ったモノ言いをするからには、言及料(有名税)を払わないといけないかもしれない。
意味のない税金払うのいやなんで、オレはタオルを投げてあげるよ。
耐震偽装問題の叩かれ役の代役をホリエ氏がやっている、そんな気がするな。
「世論の殴られ屋」。
もう、何度もリングにあがっては、殴られてきた。
世論の不満をガス抜きさせる。話題を提供し、重要な問題はニュースにさせない、国民の意識に留まらないように。
叩かれ料として、いずれホリエ氏には助け船を出す。判官贔屓になった国民の後押しもあって再び引っ張り上げて、さらに担ぎあげる……そんなシナリオを、考えてる人がいるような気もする。
で、もう、この八百長試合、終わりにしません? タオル投げてやるから。
はい? 陰謀論、好きですよぉ(^^ゞ
偽装よりは雪化粧
ガリガリとゴミエントリを書き足すとするか……もう少し明るい話題はないのかね?
雪が降った。明るいよね。道路の雪かきやったよ。
周りに住んでいる人、お年寄りが多くて、買い物に行く時に道が凍ってたら、転んでしまうよ。だからガンガン雪かきやる。オレにはそれぐらいしかご近所の地域貢献できないし。ジョギングしてたら畑に雪積もって、それがなかなか消えない、美しい風景だと思う。新潟の人だったら、いい加減にしてくれ、と思われるだろうけどさ、偽装よりは雪化粧のほうが美しいと思うよ。
2006年01月21日
自殺など存在しない、あるのは、他殺だけだ
ライブドアグループによる証券取引法違反事件が起こり、関係先として東京地検の家宅捜索を受けたホリエモンのかつての同僚が那覇市内のカプセルホテルで自殺した(という警察発表があった)。
ライブドアは、そして関係者は、この自殺についてどう思っているのだろうか、とネットで調べてみたところ、以下のサイトを見つけた。このようなページを公開し続けられるというのが、ライブドアという会社の社風なのかもしれない。
ライブドア自殺対策キャンペーン 「死にたい!」のほとんどは、「生きたい!!」なのである。 「生きること」を選択しやすい世界のためにライブドアは考えます。[ライブドアが自殺対策キャンペーンをやるわけ]
一方で、「自殺サイト」と呼ばれる一部のコミュニティサイトや自殺の手段や情報を安易に扱うサイトがきっかけとなった自殺が起きるなど、自殺に対するネットの影響も昨今大きくなってきています。この新興メディアの価値向上を目指すライブドアとして、このような事態は非常に遺憾に感じている次第です。
こういった情勢を踏まえて、さらにライブドアはネットメディアを運営するものとしての責任があると考え、今回のキャンペーンを立ち上げるに至りました。
NPO法人とのタイアップ企画として自殺対策キャンペーンを行う、その主旨はわかる。だが、今となっては「ライブドア自殺対策ポイント募金」というバナーが哀しい。
メディアを運営するものとしての責任があるならば、カプセルホテルで自殺した元社員の、その真相を究明し、二度とこういうことが起こらないようにすべきだと思うのだが、どうだろう。
真相がわからないからこそ、自殺ではなく他殺ではないか? という噂が飛び交っている。
マスコミ各社は警察に貼り付いて情報をもらっているから、警察発表にNOとは言えない立場だ。そんなことを言ったら、今後、情報をもらえなくなる。ゆえに検証することができない、警察発表どおりに、自殺だと繰り返している。
そして、死んだ者を忘れようとしている。
死んだ者に事件の責任を押しつけて闇に葬り、事件の核心や真実につながる線を断ち切ろうとしているのは、誰か。マスコミはその線を断ち切っている張本人でもある。
たとえ自殺であっても、自殺ではない。
自殺など存在しない、あるのは、他殺だけだ。
自ら命を絶つように、誰かから強いられて命を絶つこともあるだろうし、愛する組織、愛する者を守るために仕方なく自殺する人もいるだろう。
だが、どのような条件であれ、自殺ではなく他殺しかありえない。
人は自ら命を絶つことなどできない、それは生物として原理的に不可能なことだ、ということ以上に、人は死ぬことができないよう社会的に条件づけられているからだ。
どこかに必ず、他殺者すなわち有責者がいる。それが個人のこともあるし、ある集団のこともある。彼らは、人を一人死に追いやったことによる罪を犯している。
誰も、有責者であることから逃れることはできない。それぞれの心の法廷に必ず引っ張り出される、何度でも、一生。
それゆえに、まさにそれゆえに、人は、自殺してはいけない。
もし、追い込まれて生きているのが苦しいから自殺するのだとしたら、そのように仕向けたあらゆる存在との闘いを起こしてから死んでも遅くはない。自殺しようとしているのではなく、人に殺されそうになっている、という自覚。殺されていいのか? 殺されそうなら、抵抗すべきだ。ただ自殺するのでは最後まで相手の言う通りに動いているだけになる。命令されたら死ぬのか? それでは奴隷と同じだ。人間としての権利、人間としての尊厳を自ら忘れてはいけない。
人は属している社会集団(基本的には国家)の法に従うべきだが、その法自体に不備がある場合、あるいは、違法な条件下で自らの命が脅かされているならば、法を超えても闘うべきだ。なんのために法がある? 人間のためだ。その法が人間を脅かすとは、本末転倒ではないか。
いや、闘う力もない、疲れている、闘いたくない、相手も同じように苦しめるし、一刻も早く楽になりたい、という人。すべての社会関係をリセットすればいい。人間関係も、金の関係も。逃げることを薦める。死ぬよりもましな世界はいくらでもある。
愛する組織(集団、個と個の関係性)を守るために自殺する人。個を死に追いやる組織などは存在する意味のない組織、害悪を与える組織であり、愛すべき対象とはならない組織だと思う。ゆえに、そういう組織は、こちらから破壊しにいくべきだ。関係するすべての人を愛するならば。破壊できないなら、すみやかに、その組織から離れよう。
愛する者を守るために仕方なく自殺する人。そのままでは残された者を告発することになる。残された者は、有責者として自己の心理の中で告発される。被告として、なんどもなんども告発され、自殺者との関係を問われて発言を繰り返さないといけない。その苦痛を一生、与えたいのか? そのような権利はない。権利を持つと言うなら、残された者もその権利を主張する。そうすれば、残された愛する者もまた自殺という選択肢を選ぶことだってある。自死を選ばずともなんとか切り抜ける方法を探すべきだ、そうでなければ、本当の他殺を受け入れ、真の犯人を愛する者に知らせることだ。
愛する者にとっては、愛する者が存在するということだけがいちばん重要なことだと思う。そのことを忘れたら、愛する者は、間違った選択をする。させてはいけない。
日本では年間3万人も自殺する人がいる。予備軍、未遂を含めたら、この10倍はいるだろう。
詰め腹を切らせて責任を個人に押しつけ闇に葬り全体を生き残らせる、というシステム、この国固有とも言えるシステムのプログラムを書き換え、逆に動くようにすることが急務だと、オレは思う。
2006年01月19日
2006年01月17日
再読作戦3-安部公房『砂の女』
[生と死]の再読作戦も第3回を迎えた。
昼夜兼行、図版制作の突貫作業をやって一息つけた。ははは、妙に疲れたぞ。オレは読む、読むぞ! それで、おもむろに
安部公房の『砂の女』
を読む。
文庫ですけど、装幀がよいですよ(新潮文庫、54刷)、カラスの影が美しいので、思わず買ってしまった。内容、忘れてる……蟻地獄状態で逃げられない話、っていう記憶しかなかった。浪人の時に、駿河台の下の古本屋で立ち読みしたことは確かなのだけど、安部公房で思い出すのは……立ち読みで貧血気味でフラフラしていた、という記憶のほうが鮮明なのだ(^^ゞ
で、めっさおもしろいやん。安部公房、なんで学生のときに全部読まなかったのだろう、と思う。やっぱ、貧血で印象薄かったのが原因か、それとも金がなかったからか。昼飯代抜いて古本探して立ちくらみなわけで……BOOKOFFにでも行って文庫を漁ってこよう、などという思考は、当時も今もあまり変わっていないということなのだけど、貧血には強くなったな。
『砂の女』の話、自由が担保されるには……○○という条件さえクリアしていれば、なんて読み方をしてもいいのだろうか、それじゃ、実用書の読み方だ。なんだか、労働についてあれやこれや考えてしまうオレがいる。希望、烏とくれば……創世記の冒頭、ノア、砂というより、水……となれば……あれやこれやと……。
ところで……「汚れた風景や人物の描写」が続くのには辟易する。遠藤周作もそうなんだけど、そのような描写をするのがブンガクっぽいから、みんなそのような描写を入れたがるのか、それとも「存在の疲れ」を表現するための枕なんだろうか。あるいは、当時の普通の描写に過ぎないのだろうか。高度成長を続けていた時代は公害にさらされ明らかに世界が汚れていたのかもしれないが、現在があまりにも潔癖症の世界だから当時の生活感を汚く感じるだけなのかもしれない。それが当時の、時代の空気、ということか。
さて、次は何を読もうか。読むには、時間を作らなければ。時間……
2006年01月12日
『男たちのYAMATO』-「泣きコンテンツ」で男泣きするという罠?
年末年始にちらっと観た映像作品の話、のついでに。
◇『男たちのYAMATO』
戦艦大和の壮絶で悲惨な戦いを描いたこの映画には、1000円なら払ってもいいかな、と思いました。反戦映画みたいな扱いをされることもあるようですが、普通のカドカワの邦画ですね。中年男性なら大和撃沈のストーリーを知ってる人も多いはずですから、映画のストーリー自体に驚きはありません。子どもの頃にプラモデル作ったり、戦記モノを読んだりした人なら、知っている話です。逆に言えば、情報をまったく持っていない人(日本が昔アメリカと戦争したことさえ知らない若年層)が見たら、重すぎ、マジ語ってるんの? という反応があるかもしれません。ゆえに主題歌に長渕はいらんですよ。若い人に歌わせればいいのに。「おいらの家まで」のメロディをバラードにした感じで歌われても泣けません(当初の予定を強引に変えて長渕を起用したのは、カドカワのオッサンらしい(^^ゞ )。映像に関しては、最初、カメラワークで目がチカチカしちゃって悪酔いするところでした、人間を映すならあんなに背景をグルグルと回す必要はなく、固定で引いただけで充分では……。戦闘シーンについては、こういう感じだろうなぁ、嫌だなぁ、と本で読んだ戦記ものの記憶を追認するような作業が頭の中で行われ、途中で、それは違うだろ、ありえん、などと思ったりもしますが、些末なことは、まぁいいか。
戦争を扱った邦画、もっとたくさん作って欲しい。第二次世界大戦の苛酷な戦い、それぞれの戦線を(硫黄島、比島、満州でもなんでも)、最新の技術で再現して映画にしてほしいですね。
と、それ以上のことについては、仕事が終わった深夜につらつら書き足しているうちに収拾付かなくなってきたので、適当に投げ出してみる。あとでこれを読み返して、削除すっかもしれない。なんだか、海に投げ出された漂流者が自分の掴まっている板の形が悪いのだのなんだの、と言ってるような感じもして。
仲代達矢の迫真の(目玉の)演技と、鈴木京香の艶やかさの少し欠ける(ホントに船酔いしているのか青白い顔の)演技の後ろで、少年は何かを感じとり、決意し、お話が終わる。悪くないオチだとは思いますが、それら現代の話があまり効いていなかったように思える(タイタニックみたいな物語構造)。最悪の事態に向かって盲目的に突き進んでいく人々に、引き返すことを教える、気づかせる、その先駆けとして無謀な作戦で死んでいったYAMATOの男たちの死は報われたのかどうか、それは……あの漁舟が戻れたかどうかにかかっている。
いろいろと文句を言いながらも、不覚にも泣けてしまったシーンもある。「泣きコンテンツ」には用心してたのに、やられた。そう簡単に泣いてはいけない。男だから泣くな、ではなくて、泣いたら忘れてしまうぞ。忘れていいことと悪いことがある。
「泣きのシーン」、それこそが忘却の罠だと思う。映画の話とは違うけれど、某テレビCMでキムタクが缶ビール片手に『フランダースの犬』最終回を観て泣くシーンがある。子どものネロと犬のパトラッシュが死亡する瞬間を何度も見て泣ける、それを売りにするというNTTの神経がわからない。感動の涙すなわち金、って感じがして、なんだかビール以外の苦い味がする(もっと言わせてもらうと、戌年だからといってこんなCMよく作れるよ、能天気で悪趣味な連中が世の中の空気を支配していることの代償は、日々の事件・事故に現れているな)。CMで何度も繰り返される死は、繰り返されることで圧倒的に軽くなっていく、無価値にされていく(ポイントがたまる、無料になっていく、と言ってもいいが)。暖かな部屋と冷たい教会の床、生と死、この距離感・遠さを演出し、涙を誘い、そして次の瞬間にはすべてを忘れさせ、再び同じ涙が繰り返され、涙の使用料の請求書が送られてくるなんて……それって戦争と戦争を娯楽として観る人の関係じゃねーのか? と思う。
『男たちのYAMATO』は歴史について「もう忘れていい」と「忘れるな」が同時に言われている。記憶の受け渡しができた戦争体験者はその記憶を忘れてよく、それを引き受けた者は忘れてはならない、そういう歴史的記憶の遺産相続の話だ。この遺産は負の遺産であり、受け渡しは誰もが嫌う。その記憶を受け渡すには、ひとつの娯楽、映画としてパッケージングする必要があったのかもしれない。だが、この映画という回路には、記憶すべきことが記憶できないようなシステムが付随している。
悲惨な記憶を娯楽とするには、他者の悲惨な死を一時的にも体験させ、すぐに現実に引き戻し、自分の安全な位置との落差を見せつけることによって可能になる。その落差は一時的であるから耐えられるのであり、すぐに忘れなければ身がもたない。すぐに忘れるための方途、それが泣かせることだ。人はつらい記憶に苛まれる時は、泣いて眠るしか手がないのだから。ある種のつらい記憶の忘却のために泣くことを戦術的に利用するやり方が、戦争と、そして戦争映画自体にも内在してないだろうか。
近親者の理由なき死別と哀しみこそが、何事か語りうる特権的な立場、国民の立場を有する、無垢の無力の、犠牲になったがゆえの勝利者となれるのだ。このように人を国民に教化するのが戦争であり、個としての哀しみの記憶、戦争の記憶自体は泣いて忘却するのが望まれる。忘却されつつある戦争の記憶は稀少であるがゆえに、過去から現在に輸出される。そして、現代の人がそれを見聞きして泣き、再び忘れられる。ほんとに泣いていい人(当時のみなさん)が泣くこともできず、泣かなくていい人(現代人)が泣いている。過去に流れるはずの涙を、今、売っていいのか、それを我々は娯楽として買っていいのか。涙を買ったら漏れなく付いてくる歴史的記憶とやらはどうするのか、泣いて忘れろ、というのだろうか。他人のために涙を流すのは大事な共感能力だと思うけど、涙を流すことで、その発端となった事実そのものを水に流して忘れさせるという「泣きのカタルシス」には乗りたくない。
『男たちのYAMATO』には泣いて忘れるというシーンがいくつも出てくる。水上特攻前の男泣き、慟哭、「お忘れください」。多くの人々が嫌だと思いながらその行動を止めることができず、最後の最後で泣いて個別の生を忘れ、犠牲の死を受け容れる、そういう全体主義の心と行動の問題は泣かずに冷静に吟味し反省しそのカラクリを明らかにしたうえで幕引きにすべきだと思うのだけど、果たして、戦後の日本でそうした検証が行われてきたか。
「泣きコンテンツ」とともに泣いてオシマイにしたら、その後に来るのは何か。「すべてを忘れる陶酔・歓喜・涙のコンテンツ」かもしれない。たとえば、某テレビ局の言う「そこには感動がある」といったコンテンツには用心しようと思う。そこには「個」に対する「全体」(国家、民族、階級など)の優位性を強調する思想や運動が忍び込んでいる。全体を支える幻のユートピアへ向かう(「個」を投企する)ように急き立てられるような時が来るかどうか。いつ、誰が、どのような仕方で、「すべてを忘れる陶酔・歓喜・涙のコンテンツ」を出してくるか。
最初に書いた疑問、子どもが操縦する小さなあの漁舟は大和沈没の海上から港に帰れたのか。この映画では描かれていない。子どもに日本の舵を任せることにしていいのか。それじゃ大江健三郎の最近の発言の傾向と同じではないか。決着すべきは、その世代の人間であり、そこで可能な限り食い止めるべきであり、負の遺産を未来に残すべきではないと思うのだけど、どうだろう。それでなくても、背負わされているモノ、ツケが重いのだ、そうした負債の計算は脳が拒否している、だから、未来について一切の思考を停止して、ほどほどに生き延びられたらいいと思う子どもが増えている(自分のことだけで手一杯なの)。
舟は方向を見失い、遭難する。夜、煌々と照る月の下で始まる少年漂流記(女の子も乗ってない舟でリアルに進行するサイバイバルのドラマ)に出演する若者はいないだろう。だって、危機から脱するなんてたいへんだよ、マイナスからゼロになるだけなんだぜ? 仲代達矢は再び倒れ(心臓悪いのに無理すんなよ)、鈴木京香は気分が悪くて舟の上で寝込み(初めからムチャな要求するなよ)、海は荒れてくるし、どうしたらいいんだよまったく……海上保安庁来てくれよ……圏外かよ……どうしてこんなサルガッソーみたいな場所から日本人のオレは人生を始めなければならないんだ? その責任はどこにあるんだ? いや、これは夢に違いない、そうだこれは夢なんだ……沈没点の冷たい海面で怨霊が渦を巻いて……漁舟がメールシュトロームの渦の中に巻き込まれ……時空を越えて、あの時代、あの時に転移し、戦艦大和で戦いを再開して、その戦線をクリアして沖縄特攻して主砲で蹴散らしてやれば……そうだ、日本があの戦争で勝ちさえすればいいんだ、戻ってやりなおせばいい! そこをクリアしていない限り、勝てないんだ、これはゲームだ、セーブして戻ってやり直しをする、何度でも。だが、そうした妄想ゲームのシナリオが展開される前に、日本のまっとうな大人が、探照灯を掲げて舟を救いに行けるかどうか、それもこの映画では語られていないことだ。二重遭難の危険を省みず日本の未来を助けに行き、日本に還ることができた時、その場所に日本という国がまだ残っているかどうかはわからないが、少なくとも、涙の海で溺れている人を助けにいくには、泣いている暇はない。
◇『戦闘妖精雪風』の最終章(アニメ)
JAMとの戦いを地味に淡々と描いた作品として生まれ変わらせて欲しいなぁ。いろいろと言いたいことはすでにみんな言われてるから、もう、いいんだけど、それでもなぁ、通路を破壊しておしまい、って、夢落ちと同じやん。この通路って無意識−意識を繋げている通路みたいなものだと思ってたんだけどねぇ。。通路を遮断しちまったら、意識があるのに黙り込んでる人(黙狂)か、意識がないのにしゃべっている人(寝言)か、どちらかになる。もしかして地球はJAMに支配されちまったのかな。なんせ、このgont.netが載ってる鯖も……。
友達に「観た?」って聞いたら、昨夏観たけど記憶にない、だそうで。
◇『サムライチャンプルー』(アニメ)
ずいぶん前に友人から観ろ観ろと言われてようやく借りた。こういうの、ありかよ! うまいなぁ、よくできてんなー、おもしろかった。時間があれば引き続き、次を観たいものだけど。
他の友達に「観た?」って聞いたら、はるか昔に観たけど録画もしてない、だそうで。
2006年01月07日
敵から逃亡せよ、敵が存在しなくなる無限遠点まで
正月からランニング100km。午後になってから走り出す。千葉から東京へ、そして埼玉へ。
夜の京葉湾岸、谷津干潟沿いの歩道は走りやすく、干潟の面に映る街の灯が美しい。思いがけない夜の風景だった。皇居を周回し、北へと向かい、翌朝、自宅着。
さて、走りながら思っていなかったことについて、今、書いてみる。
0時を回った。今日は箱根駅伝。そのスタート付近を通りすぎる。
01時。皇居着。いつものごとく警備の警官が立っている。他には誰もいない。
誰もいないのか? いや……
走りながらイヤホンで聞いていたラジオから、敗戦時の玉音放送が流れる。
足を引きずり、ライトもなく進み、行き倒れ、昭和の歴史の闇の闇の闇へ、夜の夜の夜の影となった亡霊たちが、私を通して、その声を聞いているような気がしたが……私は霊媒ではない。気のせいだろう。帰ってきた亡霊たちは掘の周囲を渦状にいつまでも回転しているのだろうか、それとも靖国に収容されているのだろうか。断絶的で循環する閉じた歴史意識と連続的直線的(線分的)な歴史意識、その幾何学的接点は、皇居の掘で断絶されている。その掘はとても深く、渡ることができない。歳神が渡れない堀があれば、その先は歳をとらない世界、永遠の天国か地獄だろう。
幾度も回帰する苦しみの行軍、リングワンデルング(環状彷徨)する精神について考える。ホワイトアウトした雪中行軍時には、このようなリングワンデルングが起こりやすい。雪原を奮闘してラッセルしたあげく、また同じところに戻ってきてしまうのだ。雪の中でも、泥田の中でも、密林でも、闇夜でも、現代でも、それは起こる。
これだけ動いたのに、そう、時間も費やして足を動かしたのに、まだ同じところに留まっている。
そうだ、ここは……まだ1周目が終わったにすぎない。
彷徨うならば、彷徨うがいい、回転しているならば、回転すればいい。その回転の中心に重力がある。接近しつつスイングバイして離脱することは可能だろうか? あるいは、重力圏から離脱するために加速すべきか。そもそもオレはなんで遊星気取りなんだ? 皇居的存在をしてブラックホールや太陽になぞらえるのはいかがなものか。中の人、彼ら彼女らもまた、死と闇を畏れる人間だろうし、数ある恒星・遊星、超新星爆発のカケラの一つだろう。
円環的に回帰すべきか、それとも波線状に彷徨うべきかを幾何的な問いとして解いたところで、この膝の痛みはとれない。そうだ、この痛みを散らすために、様々なことに思いめぐらせているだけなのだろう。ここはアスファルトやコンクリの上。固く舗装されていると最初は快適な走りができるけれど、次第に膝が痛くなる。移動する生身の人間の足には、雪原でも泥濘でもなくアスファルトでもコンクリでもない、ほどよく踏み固められた土の地面のがいい。
いずれにしても、この世は、生身の人間の移動には最適化されていないようだ。
足が痛いのなら、いいかげん、進むのを止めたらどうだろう。この、どうでもよいランニングの企てから降りたらどうだろう? 簡単なことだ、足を止めさえすればいい。タクシーを拾って帰ればいい、正月だから電車だって動いているかもしれない。早く帰って眠ればいい。もう02時過ぎている。進まねばならない、その脅迫的な考えからこそ逃れるべきではないか? 運送の仕事ならともかく、タダで深夜に走ってどうする? 長距離のトラックだってタクシーだって夜間は割増だというのに。だいたい長距離を走るのは健康によくない。しかも寝ないで走るなんて寿命を縮めるだけじゃないのか。
山が見える、そこに行きたい。頂上から朝日を見たらきれいだろうな。それだけの動機で夜に山を登る人だっているのだから、夜に走る人がいてもいいじゃないか。
進めるだけ進む、走れるだけ走る。
ここで終わりにしない。100km走ると決めたからには走ろう。そこに特別の意味はない、MUSTはない。ただ自分が自分に対してそう決めたからそうするだけなのだ。走り終われば見えてくる何かに希望があるから走るだけ。ねばならぬこと、なければならぬことに追い立てられている日常、そうした命令群から自由でありたい。もしMUSTがあるにしても、今は、自分の無意味な命令によって走っていたい。
敢えて特別な意味を付け足すこともできる。得体の知れない大義や召命に急き立てられ感化され何事か熱狂的になされたことで世界中の怨嗟が爆発的に増した前世紀そして今世紀の初めのパラダイムから自分は距離を置いて冷静に自らと世界を見つめる視座を手にいれるために、走っていたい(食べていたい、眠っていたい、異性と抱き合っていたい、排泄していたい、ここにはあらゆる私的な動作が代入可能ですのでご利用ください)。
経済的・政治的・宗教的・人種的・民族的・国家的な、あらゆる対立を煽る為政者たちは、自ら無意味に走ったりしない。戦い合わせたい双方が見守るカメラの前で、マイクの前で、大仰な身振り手振りで演説をぶった後、その後は後ろに下がって、坐って指示するだけだ。彼らは微動だにせずに言葉だけで他人を動かす、口車という戦車に大衆を乗せ、自分は御輿に担がれる存在、権力とはそういうものだし、人間はそういう権力を熱狂的に欲することがある。結果として前線に送り込まれ銃を持たされ爆弾を持たされ殺し殺されて英雄に祀り上げられ参拝され、後衛では人殺しの手伝いという労働をさせられ多くの血が流され苦しみが増え続ける、そういう世界で、苦しみに加担せずに生きるための身のこなし方、振る舞い方、考え方を維持するには、走っていればいい(ラーメンが食べたければ食べていてもいいけど、その行為が連続的に自主的に可能である環境は、もしかしたら、走って移動する行為の中に限定されていく可能性もある)。走っていれば、少なくとも逃げ足は早くなる。敵前逃亡? そう、敵から逃亡せよ、敵が存在しなくなる無限遠点まで。自らの影が存在しなくなる夜、自らの内なる敵から、無限遠点まで逃れよ。
皇居2周目、足音は聞こえないが……我が内なる影は闇夜でもまだ追いかけてくるらしい。
2006年01月05日
短期間にこんなに巨大化させる?
ゲド戦記製作委員会に電通と博報堂参加 (元ネタはNIKKEI NET企業ニュース電通と博報堂、ジブリ作品で連携・共同出資で広告宣伝日本経済新聞) 「宮崎駿監督の『ハウルの動く城』の公開からおよそ1年半と大作劇場アニメとしてはこれまでより短い期間しか空いていない。」
「腐ってやがる・・・出すのが早すぎたんだ・・・」?