2006年08月25日
2006年08月23日
ベッカム・カプセル(酸素カプセル)
夏の甲子園で優勝した早実の斎藤投手が連投疲れを癒すために入っていたという酸素カプセル(通称:ベッカム・カプセル)、スポーツ紙によると一式400万円するそうだ。決勝戦の朝もギリギリまで入っていたという。
グーグルでベッカム・カプセルで検索すればいくらでも出てくる。
http://www.azegami.com/sanso/
効果は確かにあるのだろう。ベッカムが骨折したとき酸素カプセルを使ったことで有名になったわけだし、ヤンキースの松井も使って骨折からの復帰を早めようとしている。医療現場では酸素吸入器は普通にあるわけだから、使わない手はない。
酸素カプセルは美容や健康の効果は高いみたいだし、労働の現場でも使えるような気もする。長距離トラックのドライバーの居眠り運転防止にも使えそうだなー、コンビニで買った白元の酸素缶を徹夜の仕事中に吸ったら一瞬だけ眠気がとれたのは事実(正直、効果は持続しない、というか、こんなのまで吸って仕事するのはかなりヤバいよな、と)。
でもなー、高校野球で酸素カプセル使用はありなのか? と思ってしまうのだった。「野球部って金あるよね」という、貧乏体育会系部出身者のヒガミかもしれんけれど。駒大苫小牧の田中も同じように、ベッカム・カプセルを使っていたらどうなっていただろう、と。
だがしかし……不公平だからといって高校野球でベッカム・カプセルを禁止するのもおかしいのだった。ベッカム・カプセルを否定してしまうと、野球部専用グラウンドも否定しなければならないし、夜間照明施設も否定せざるを得ない。豪華な設備はいいとして、では、雪の多い地方の体育館まで否定できるだろうか。そう考えていくと、道具を使って団体で行うスポーツは、どうしたって、資本の投下量が勝敗を左右するのだと思う。もちろん、素材としての選手は必要だし、そのうえで育てて、強くして、勝負させるわけだけれど。
プロ野球ではチームの強さと資本の強さが正の相関にない場合もあるようだが……高校野球のほうが、素材の弱さそのものを補う人工的な道具や施設が効果を発揮しやすいのかもしれない。そうなると、今後のスポーツ・ビジネスは、若年層に対してお金を投じて盛り上げる方向にどんどん移行するんだろうな。若手の有望な選手を先に囲ってしまうのだ。プロサッカーの世界はすでにそうなっているらしい(南米や欧州)。インサイダーで未公開株を手にして儲けるのと似ている。日本でもJリーグがそうなんだろうし、拳闘の世界では亀田的なるものが必要なのだろう。これはスポ−ツに限った話ではなく、たとえばブンガク賞のある文壇もそうだろうし、スターシステムがないとやっていけない世界なのだった。
広告代理店やメディアやスポンサーにとって重要なのは勝敗の予想が明確であること、マーケティングで勝利できることが重要で、言ってみれば予測できない奇跡がスポーツで起こっては困る。予定の勝利は絶対化され、すべてがお膳立てされ、ベッカム・カプセル程度では済まなくなり、筋肉増強剤やら、疲労を感じない覚醒効果のある薬、強力な鎮痛剤の使用だとか、そういう方向へどんどん流れていくだろう。スカッとさわやかな熱闘甲子園や君は美しいサッカーにはそんなことは決してないと思うけど……居酒屋で宴会やったり、喫煙でオジャンになるのはまだかわいいほうなのかもしれない。
まだ話は続く…かつて米アポロ月宇宙船で地上での訓練中に火災が発生して、酸素のおかげで訓練中の宇宙飛行士3人も燃えてしまった。それ以来、酸素ではなく、空気で宇宙船の中を満たすことになったそうだ。高濃度酸素が常に良いとは限らない…高濃度の酸素に頼りすぎると、低酸素化の高所でトレーニングすることで酸素摂取能力を高めているスポーツ選手には勝てないだろう。酸素はあくまで、補助的役割だと思う。
また、スポーツで使われるさまざまな薬剤(市販のスポーツドリンク含む)は大丈夫なのかと思うことがある。スポーツドリンクに含まれるアミノ酸等は身体にどうなのか、と。酸素の場合は、酸素を使い過ぎて、いずれウラシマ状態にならないのか、と。
登山では減圧室があるけれど、あれを使ってトレーニングしてヒマラヤに登るというのはどうかと思う。無酸素で登頂しなければ無意味だとは言わないが…使用の終わった酸素ボンベを山に捨てるようなら登らないほうがいい……そんなわけで、自然な状態で勝負するのがいちばんだなーと思うわけです。
2006年08月19日
「死者の民主主義」を巡る断想
昨今の靖国問題は、国家と個人の生死の結び目がどのようにあるか、という問題だと思う。死者に語らせることで現世に影響力を行使する方法は、宗教的なやり方であり、政教分離にはなっていない。そこで自分は「死者の民主主義」という言葉を思いだした。
「死者の民主主義」という言葉の意味は、ギルバート・ケイス・チェスタトンのそれとは違って、生者を否定する悪い意味として使っている。チェスタトンは『正統とは何か』で、伝統、先例主義のことをして「死者の民主主義」と述べている。
日本に置き直せば、今在る自分の存在が歴史的存在であるならば、死者の礎の上に自らが建てられていることは間違いなく、自己同一性は祖霊の集合体とその儀礼一式によって担保されるわけだ、なるほど、ここまでは正しい。しかし、死者の民主主義は常に過去に向かった権力の集中が行われるのであって、過去の誰か、あるいは過去の事象に集中した権力を生者に折り返すその仕方、時制を超えた力の分配の法が立てられていることと、その扱いが正しくなければ、現世の権力者の権力(生殺与奪の力と言ってもいいが)を強く補うという役割でしかなくなる。ここで言っているのは、宗教的な力の源泉とは何か、霊魂の力の経済学だ。この権力を正しく総べる存在は現在、日本に不在である。いや、かつてあったかというと、なかった。それを天皇とする人もいるかもしれないが、それは戦中に行われた特殊な儀礼であり、本来の死者儀礼、葬送儀礼というのは、民族的ではなく民俗的であり、国家的ではなく地域的であり、市民的ではなく家族的・地縁的・血縁的なものだった。日本という国家や、特定の組織が、個々の命を集合的に扱うことに関して、自分は否定的であるけれど、それを保留しても、日本には死者を扱う儀礼も、その権威も、喪失している。なぜか? あの戦争に負け、多くの者が死んで、すべてがうやむや、無責任なままで、打ちひしがれ、あるいは忘れるため、経済戦争で勝利するため、これまで来てしまっているからだ。誰かが戦中の特別な力を破棄したくない、放棄したくないがため、ご破算にすることができないでいるのかもしれない。責任を追及する時、特定の者をスケープゴートにして、葬りさることはできず、ゆえに、罪と罰のグラデーションが生まれるわけだけど、何が罪で何が罪でないか、それは、我らが国民が決める部分と、国際社会が決めることと、弁別すべきだと思う。このことについては、ここでは書かない。
「死者の票を生者が受け取って、現在と未来において行使するな」、この立場は崩すことができない。その理由の一つは前に書いた。票を正しく扱う儀礼含む法が正しく立てられていないし、それを執り行う人間もまたいないからだ。個人的には、そんな法は不要だし、法の執行者も不要だ、というか止めてくれ、オレに対しては。
もう一つは、未来時制より過去時制のほうが、影響力が強いからだ。過去には具体的な誰それが存在しているが、未来はまだ誰が出てくるか分からない。ありもしない未来より、確実に存在した過去の言うことが正しい、と。だが、それが高じると、未来さえも過去へと送り込まれる。現在に生きる人間が未来の価値の先物取引をして、それを過去に献上してどうなるというのか。過去に固執するということは、暗い未来しか思い描けないからだ、だから過去を賛美する。未来がどうなろうが知ったことではない、過去の権威を担いで、その高みから現在へと権力を備給できていればよい、と。そんな人間は過去も未来も喰いものにしている。
「過去の戦争で亡くなった方の尊い犠牲のうえに現在が成り立っている」という言い方には、トリックがある。過去のああした「悲惨このうえない犠牲」がなければ、もっと良い現在があったかもしれないからだ。つまり、「尊い」という言い方には、ああした「死に方」が「正しかった」ということ、そのような「死」を奨励している面が見てとれる。それぞれの個人が究極的に犠牲を選びとらざるを得なかったことは確かかもしれないが、それを強いるというのはどういうことだ? 能動的に行われた犠牲もあっただろう、それについては立派な覚悟であると思うけど、それを強制することなどはできないし、それは殺人でしかないのだ。死んだのではない、殺されたのだ。なぜそれを隠すのだ? 死んだことが無意味だったのか? 無意味な死だったのか? そんなことは認められない! その通りだ。無意味な死、残酷な死をもたらした者や組織や機能を断罪するまでは死ぬに死ねない、たとえ神として祀られようとも。その怨念を封じるための蓋などいらぬ。だが…死者は語れない。そこには、断念と無念が在るのみなのだ。
「公のために死す」「殉職」「国家の礎となって」……よかろう、それを言うならば、私利私欲を貪る亡者で溢れるこの現在の国家を「個々の生に値する存在」にしようと努力してくれたまえ、「公」というのは「公平」ということだ。少なくとも腐れ為政者の現世のために我が命を犠牲にする気など毛頭ないと言っておくし、現在だけでなく「現世の借金のために売り飛ばしてしまった未来を買い戻したらどうだ」と言いたい。過去の栄華や栄光を買い戻すために未来を売った者たち、明日起きると枕元に死神が座っているかもしれない者たち、現在のために殺されかけている未来からの使者=死者は、黙して語らないが、この国の未来の心臓を掴んでいる。
「現在の生者の民主主義」「死者の民主主義」があるならば「ありうべき未来からの使者の民主主義」もあるはずだし、かつて、「死者の民主主義」は「未来の民主主義への橋渡しのために現世を抑制する」ためにあったはずだ。それがない今は、厳粛に「死者の民主主義」を否定しておきたいし、「ありうべき未来からの使者の民主主義」を構想したい、構想するだけで罪人扱いされかねないこの世の中で。
(ちなみに「ありうべき未来からの使者の民主主義」のために過去も現在をも否定する仕方は、破綻した左巻きの社会革命理論でもある。その源泉は、ユダヤ教やキリスト教にあるし、生死の観念にはさまざまなバリエーションがあるし、それは個々で違っていて当然で、統一されるほうがおかしい)
2006年08月16日
鎮魂
死者は語ることができない。生者の口を通して多数の死者の意思を代弁をしようという者にはよほど注意しなければならない。その者は死者と取引して生者の世界に死者を招き入れているからだ。いや、死者は語らないなら、それは、生者のなかに潜む暗く残酷な意思である。
犠牲という名の死者の民主主義を操るソフィストたちから、遠く離れようと思う。
死は個人的なものである。故に、死者の民主主義批判もまた、封じられる。
かつて生者であった者の記憶を忘れることもできないし、常にその記憶と共に在ることもできない。生者にできることは、死者を思いだし、しばらく記憶を共にしながら、黙祷することだけだ。それ以上のことは何もできない。
夏に山に行った。そして戻らない者もいる。春、そして、秋。山と在るときはいつも思いだす。思いだすことでしか鎮魂ができないけれど、忘れることは決してないだろう。
2006年08月10日
言戸堂 8月の休日のお知らせ
弊社8月の休日についてお知らせいたします。
休日中は事務所での作業が遅延いたします。よろしくお願いいたします。
[8月]
8月11日(金)〜8月15日(火)
(ご連絡はFAX等でお願いいたします。ご返事は早くて8月16日となります)
2006年08月05日
佐渡・姫津港の「タラミソ」
普通のミソ漬けタラなわけですが、いやー、これがうまい、うまい。暑い夏にちょうどいい塩加減。
知り合いの編集者さんが、ランニングがてら、わざわざお土産を届けてくれました。感謝。
御茶ノ水・茗渓堂にて『日本登山体系9 南アルプス』を買う
自宅のどこを探しても『日本登山体系-南アルプス』がない! あれぇ? おっかしいな。仕方ないので、再購入することに。茗渓堂は御茶ノ水駅前にある山の本の専門書店なんですが、今は一階でロックギター売ってまして、岩つながりかよ、と(前はビル全部が本屋だったんですけどね、人文書もよく買いました)。
2006年8月の上高地・岳沢
友人が山(小屋)に行って、朝、携帯のカメラで撮った画像を送ってくれた。
大快晴の夏山じゃないか! それにしても今年は残雪が多い。南稜にあんなに雪が残っているとは。
岳沢の大滝もあんなに雪が残ってるのは珍しいと思う。
岳沢ヒュッテが今期、営業できなくなってしまった理由がわかる。
2006年08月04日
映画『ゲド戦記』を観ての評価-不器用なドキュメンタリー?
映画を見終わった時、映画館がざわついて不穏な雰囲気でした。映画館から出てくるとき、ジブリ・ファン風の女性のお客さん数人、
「ぜんっぜんっわかんないっ!」
怒ってますね(^^ゞ そりゃね、もう「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ! ファイアー!」で燃やし尽くされたら激しくダブルバインドで悩みますよね。硫黄と火の言葉で酷評するのもいいけど……だけど、この作品をもう一度、どこかで観てもいいかな、と思ったりする。腐海の底の暗闇のような映画館で、鬱々とした気分に浸りながら。
次、「ブレイブ・ストーリー」または「日本沈没」?
(以下、ネタバレっぽいので注意)
意図的に過剰な期待を裏切るように作ってあるような気もしてくる。子どもにとっては親の期待、逆に、親にとっては子どもの期待。国や民族や宗教、職業の役割期待。「こうでなければならない」という標準化の強制。ある種の理想への同一化や同一視、そういう原理的理想像としての父親を最初に殺してしまって、逃げるところから唐突に始まる物語。
いきなり監督として呼ばれて、成長させられて、引っ立てられて、目の前にはジブリ・ファンの群れが突進してきていて、その広角レンジに合わせて「大ヒット御礼ビーム」を撃てって言われても困るでしょうね、普通の人なんだから。「世界を驚嘆させた偉大な監督」と「その長男」は、仕事上、なんの関係もないのだし。
監督はビーム撃たないで崩れた巨神兵、魔法が使えない魔法使い、観客は正義と愛と涙を欲望する王蠱の群れみたいなものだ。群れは今、巨神兵の残骸を避けるように走り抜けている。ハジアのような甘い魔法(のかかったアニメーション)を求める人への、ジブリからの回答かもしれない。
監督は神でもないし、ジブリの不老不死を約束する魔法使いでもない、まして巨神兵でもない、ビーム撃つ前に崩れますよ……『風の谷のナウシカ』のクロトワだって「く、腐ってやがる…早すぎるよなー」って言うでしょう。本人だって言ってるじゃないですか、言われたからやるんだ、仕事だから、と。会社員だったら、与えられた仕事、断りませんよね……でも実際のところ、できない仕事は断るのが誠実な対応だと思う。それでも失敗したら、一度、徹底的に干されるだろうし、干されてもやりたいなら、その時点で本気になって取り組めばいいと思う。今回はそうとう厳しい評価と沙汰ががあるでしょうから。
アニメーションという動画で表現したかったのは何? 『ゲド戦記』でやりたかったのは何? 監督本人が掴んでいないように思う。
それでもなお、この作品のどこかに、光が射しているように思える。傷ついた少年と傷ついた少女が、巨神兵の残骸にもたれて、夕陽を眺めているかもしれないと思う。闘いに破れた、不器用でうち捨てられた、哀しみが漂う寂寞の風景。そこにきらびやかな魔法はかかっていない。真の名を教えてくれた少女のために少年は闘うけれど、偉大な魔法使いでもない少年は、世界はおろか少女一人も救えない。いや、彼は、父を二度殺し、幻想の母までも殺す。あらゆる複合観念を殺す、それゆえにこそ、竜が、彼のアニマが、彼を突き動かすそれが、自由が折り返してくる。
宮崎吾朗氏がまだ監督業を続けるとして、やってもらいたい作品を挙げるとすれば、三島由紀夫の『金閣寺』。次には映画版『鉄塔武蔵野線』のアニメ化でいこう。チャリンコ飛ばそうぜ。
ところで「真・ゲド戦記 影との戦い」の件、誰がやるの? ……(^^ゞ
酷評とは違う評の参考:
見えぬものこそ(笑)@壁のしみ
IEのformで効かないaccept-charsetの文字コード指定を効かすには?
JavaScriptを使う方法がある。
JavaScript で複数の文字コードをform から送信する方法
UTF-8 ユニコードで(一部略)<form name="f_g" method="GET" action="http://www.***/" target="smp" onSubmit="return false;" Accept-charset="UTF-8">
<input type="text" name="q" value="" size="31">
<input type="button" value="UTF-8" onClick="org=document.charset; document.charset='UTF-8'; document.f_g.submit(); document.charset=org;">
</form>
しかし、どうもうまく行かない場合、CGIでワンクッション置いて、そこで文字コードを変換し送り込む方法もある。
たとえば、utf-8でデータを送りたい場合、Jcode.pmを使う。
require './jcode.pl';
を
use Jcode;
にする。htmlのprint文でutf-8のページを出し、そこでデータをフォームにセットし直して送りなおす。
&ReadParse(*in);
で普通に分解した後でフォームに格納。
HTMLの出力は
Content-type: text/html; charset=utf-8
として、metaも
<meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=utf-8">
とする。
最後のprintは、まとめて、
&Jcode::convert(\$print,'utf8');
これで問題なく送り込める。