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7-現代近未来視聴覚研究
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2007年03月21日

ジブリ「崖の上のポニョ」、二度と……

スタジオジブリの宮崎駿監督の次回作が発表されて、記事がネットから流れてきたのだけど……ひどい、ひどすぎる……「二度と吾朗みたいな子をつくらないために」と書かれていたからだ……なにごとかと思った。
よく読めば、「仕事仕事の毎日で子どもを放っておいた自身(宮崎駿監督自身)が悪かった」ということらしい。
「反省のためにまた仕事とはこれいかに?  (スポニチだしな)そんなことより『ブラッカムの爆撃機』をやってくれたら映画館で10回見てもいい……」というツッコミは置いておいて、40歳にもなっても長男だなんだと紹介される吾朗氏の複雑な境遇を思うと、同情を禁じ得ない(まわりくどいな)。

親子の確執、「お家騒動」みたいなことで騒がれるのは、まるで伝統芸能の芸能記事だ。

宮崎駿氏“長男教育”反省し次作製作@スポニチ記事

 (主人公の)宗介のモデルは宮崎監督の長男吾朗氏(40)。吾朗氏が昨年、「ゲド戦記」で映画監督デビューしたことを、宮崎監督は自分への反抗ととらえ、「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。二度と吾朗みたいな子をつくらないために」と反省の気持ちを込めているという。

アニメの『ゲド戦記』は、ジブリへの期待が大きすぎたし、原作への思い入れが強かった分、自分のなかの失望が大きかった。

あとで気づくのだけど、それは誤った希望なのだ。

それは、原作が好きな、自分の問題であって、監督やプロデューサーの問題ではない。
彼らの作品、彼らの作品理解と、私のそれとは異なる。

それをいっしょにするからいけない。
紙と活字の原作のイメージは、刷部数分、存在する。
それぞれが、その世界を、大事にすればいい。
それぞれが、世の中に流布されたイメージに浸食されないように、守ればいい。

私は、守ることにした、というか、再建中だ(笑)。

Posted by gont at 21:51 | Comments (0)

2007年03月18日

NHK土曜ドラマ「ハゲタカ」と「仕事」

毎回、迫力を増していくNHK土曜ドラマ「ハゲタカ」
3月24日21時が最終回。

NHK土曜ドラマ「ハゲタカ」

第6回「新しきバイアウト」

株が暴落した大空電機を手に入れたのは、結局NYホライズンファンドだった。病院で意識不明の鷲津。枕元で必死に蘇生を願う由香。一方、芝野は乗り込んできたホライズンの新経営陣から、大空電機の再生のため協力して欲しいと頼まれ、承諾。しかし、大胆な人切りとリストラに苦悩を深めて行く。会社が再生するとはどういうことなのか?

原作含めたドラマ情報は、ハゲタカ_(テレビドラマ)@WIKIで(リンク切れてたらごめんなさい)。

WIKIで書かれていた内容で、「中村獅童が飲酒運転で信号無視したため出演を辞退し、松田龍平が起用された」とあった。偶然とはいえ、大当たりだと思う。松田龍平の狂気を宿した抑えた演技がいい。『ケイゾク』の真山刑事のような。『ハゲタカ』の初回に出てきた旅館は、『ケイゾク』にも出てくる都内のロケ地だと「ケイゾク/継続BBS」に書いてあった。同WIKIで、柴田恭兵が昨秋、肺ガンの手術をして、そのためにドラマの放映が遅れた、とも。この遅れが、また絶妙な放映タイミングになったと思う。ライブドア事件の裁判、そして日興コーディアルの問題に重なった。

ドラマには粗い部分もたくさんあるけど、粗さを超えて迫ってくるのは、日本が世界に曝されている現実の姿だ。2007年春以降、日本は市場の扉を今まで以上に開く(三角合併解禁になるし)。

民放でこのドラマが放映できるだろうか? スポンサーを考えたら、やりにくいだろう。ドラマ「ハゲタカ」には(番組分だけの)受信料を払ってもいいなぁ、と思う。いや、番組制作費・放映費を出してあげた、という気分にならないといけないな。

エンディングで「このドラマはフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです」と似たような「おことわりテロップ」が出るのだけど、今週のライブドア事件の裁判がだぶって、複雑な気持ちになった。

人々の人生を操っている金というものはフィクションであり、登場人物、団体名、この市場、そして世界で名付けられたコトは全て架空のものだが、架空であるコトに力を持たせたのが人間で、その架空が力を持ち、人を動かすのもリアルであり、つまり、フィクションなどは存在しない、ということ。
だが、それらの価値、その力は、人の用意している意思の強度、信頼、期待の強さや責任の重さによって決まる。

人は食べるために働くだけでなく、自らの意思により自らの目的のために働く。前者は金銭のからむ仕事であり、後者は絡まない仕事だ。人は、あえて後者を選ぶこともある。そもそも、人間は後者の立場でしかない。生命は目的のために存在するのではない。ただ存在する。そうでない人間たちが、人間の生命を他人の生命維持という目的のために利用する。

自分が生きるために他人の命を犠牲にするのが人間的である、合目的である、それが人間の本能だ、という人もいるが、それはその人にとっての意識野の決めごとであって、本質としての生命や人間とは無関係だ。誤ったダーウィニズムほど「あるある捏造大辞典」の宝庫だと思う。

自らの意思によって行われる、強制されるものでもない仕事はたくさんある。いや、人を幸せにするような仕事には対価を求めないものも多い。
というのは、そこには相対的な価値がないから。交換価値ではないから。
また、その価値を交換することでゼロにはできないものだから。
それは、受けたら、別の人に返さなければならないものだから。

人は金で動いているわけではないし、むしろ金が邪魔だと思うことがある、そういう意思がある、ということ。また、その意思の拮抗のなかで、「大空電機」のような企業がハゲタカに狙われる……創業部門であるカメラ・レンズ事業部の職人は、ただ金銭のためにレンズを磨いているのではない。

「ハゲタカ」を見ていて、自らが為す、為しうる、どのような仕事が人を、自分を、幸せにできるのか、考える。

エンディングには「富は問題にならぬ」という詩が歌われる。

もし私が祈るとすれば、自然に
口をついて出る祈りはたった一つの祈りだ。
「今の私の心をこのままそっとしておいてくれ。
そして、ただ自由を私に与えてくれ」という祈りだ。

「富は問題にならぬ」
詩:エミリ・ブロンテ、訳詞:平井正穂。
岩波文庫『イギリス名詩選』(平井正穂編)。

と、アマゾンにリンクしてるところがセコイわけですが(笑)、別にそれで小金を稼ぐつもりもないし。

それに、NHKの評価と作品の評価は別だから。

志(こころざし)で金を集めて、志とは別のことをやって収支ゴマカしたり、
余った金をどこかにばらまいて政治的な力をもったり、
法律改正して強制徴収して払わないと犯罪者扱いにすることとは別ですよね(笑)。

Posted by gont at 00:12

2007年03月02日

ペリーの肉声(ペルリ提督の「開国してくださいよぉ」)FLASH

おもしろFLASH(古いネタです、今さらですいません)。
黒船のペルリ提督が「開国してくださいよぉ〜」と悩ましげに訴え続ける。
頭が疲れた徹夜明けとかに見るといいかもしれません。
酸素摂取量が増えて、眠気が吹っ飛び、汗腺が開きます。
飲食しながら見ないほうがいいです。危険です。
かなりお下劣な部分もあります。そういうのが嫌いな人は見ないほうがいいかも。

砂糖水HP トップページの画像の下に、「ペルリ提督シリーズ」>ペリーの肉声 ってのがあります。


追記:ペリーやってるのは、宮崎吐夢でした……

Posted by gont at 00:18 | Comments (0)

「日本の形 The Japanese Tradition 〜鮨 sushi」@ラーメンズ

コントのDVDです。
別に宣伝するつもりはないのですが……各種某動画サイトにも載ってたのを偶然見かけて、おもろかったので、つい。
前から知ってる人にとっては、「今さらラーメンズかよ!」と言われてしまうかもしれないけど。


*このDVDに入っているのは、「宴」、「箸」、「折り紙」、「夏休み」、「お盆」、「お茶」、「謝罪」、「おにぎり」、「手締」で、映像特典で、土下座/鮨が入っています

ちょっとまえに、農水省が全世界のスシ店に「日本の正式なスシとして認定しますよ」という、アホな許認可水商売をやろうってニュースがあった(スシポリス)ことも記憶にあって、それで余計におかしかったのかも。

Macの比較CMにも出てる……これじゃWindowsのほうがカワイゲがある、Macってイケスカネーって感じするけど、あのCMはラーメンズじゃなくてApple(の広告代理店とその制作会社の人)が作ってるんであって、全世界的に統一された脚本なのだそうだ。

って、ラーメンズってぜんぜん知らなかった。いや、ラジオでは聴いてたみたい。
TBSラジオの深夜番組で、ラーメンズの片桐仁と、エレキコミックの谷井一郎と今立進が、ラジオコントをやっている。朝方まで仕事してることが多いので、偶然に聴いてしまうことがある(笑)。

「俺を怒らせたことを後悔するがいい!」というコーナーがおもしろい。
アニメの台詞で、くさい台詞だけを考えるコーナー。現実には存在しない作品で、勝手にキャラの台詞だけ考える、ってだけなんだけど、それがおかしい(というかその台詞の恥ずかしさがおもしろい)。

つーか、朝方でもう脳が疲れていて、ハイになっている可能性もあるけど。

最初、ラジオの声だけで、どんな人がよく知らなかった。「頭がもじゃもじゃな人」っていう情報だけで。

んで、先日、前の同僚二人がラーメンズの話をしてて、MacのCMや、動画サイトのコントで、脳内で記憶がつながってきた、というわけでした。

エレ片のコント太郎@TBS

JUNK・JUNK2の中でも抜きん出てモテない3人がお送りする、モテの下流社会ラジオ「エレ片のコント太郎」!

嫁に隠れて、35万円のガンダムを買おうとしている・・・「ラーメンズ・片桐」
三国志が好きすぎて、ヒジに水がたまった・・・「エレキコミック・やつい」
ツッコミが上手い、ゲーム好き・・・「エレキコミック・今立」

モテないやつらのリアルな生態。
学生時代から知り合いの3人が、ついつい楽しいことやっちゃいます!
「コント脳」に毒されたエレ片による、ラジオコントもお楽しみに!

「エレ片のコント太郎」@wiki



エレキコミック@TWINKL

ラーメンズ公式サイト
片桐仁@wiki

Posted by gont at 00:14 | Comments (0) | TrackBack

2006年09月01日

檸檬と親子関係-ゲド戦記

切込隊長BLOG(ブログ)-俺様キングダム
『ゲド戦記』が不評のようなのに商売人根性が炸裂し興行成績は優秀な件についての考察
http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2006/08/07_061846.html

シナプスの電位的活性度は、プラスだろうがマイナスだろがかまわない、振り切れたほうが価値がある、という話。また、上記記事へのコメントにあったフレーズ。

「丸善で本の山作って上にレモンをのっけて立ち去るようなもんだ」

というのが気になった。

札束のように積み上げた本の上に、売りたい本は置かず、レモンを置いて立ち去ってしまうこと。レモンはもしかしたら石けんかもしれないが、その位置にあるだけで、香気が炸裂する。解釈は任せる、解釈させる=消費させる=共食させる=社会化させる、酷評することで作品を共同で殺してしまう、それゆえに、作品が社会のなかで聖性を帯びる、かもしれない。

どうせなら、どうしようもない作品であるべきだし、そのどうしようもなさ、が何かを引っ掛けて問いかけているのかもしれない。

たとえば、親子関係。

子どもが親を殺すという事件が続発しているわけだけど、その事件の理解しがたい唐突さと、ゲド戦記冒頭に出てくる父殺しのシーンの唐突さには、同じ空気が流れている。

「得体の知れない不吉な塊」に支配され、街を彷徨し、途中で檸檬を買って…丸善に入り、積み上げた本の上にセットする。その檸檬が大爆発することを想像している、だけではなく、実際に爆発させてしまうということ。

積み上げられた虚構の世界を破壊すること。自分の影とともに、二人で。
そう、振り切れたほうが、社会的に価値があるのだから。

このエントリを書くにあたって、参考になったブログ

さて次の企画は -Ζガンダム劇場版で見る富野と宮崎の教育観の違い
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050606/p1

Posted by gont at 01:37 | Comments (0) | TrackBack

2006年08月04日

映画『ゲド戦記』を観ての評価-不器用なドキュメンタリー?

 映画を見終わった時、映画館がざわついて不穏な雰囲気でした。映画館から出てくるとき、ジブリ・ファン風の女性のお客さん数人、

「ぜんっぜんっわかんないっ!」

 怒ってますね(^^ゞ そりゃね、もう「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ! ファイアー!」で燃やし尽くされたら激しくダブルバインドで悩みますよね。硫黄と火の言葉で酷評するのもいいけど……だけど、この作品をもう一度、どこかで観てもいいかな、と思ったりする。腐海の底の暗闇のような映画館で、鬱々とした気分に浸りながら。

次、「ブレイブ・ストーリー」または「日本沈没」?
(以下、ネタバレっぽいので注意)

 意図的に過剰な期待を裏切るように作ってあるような気もしてくる。子どもにとっては親の期待、逆に、親にとっては子どもの期待。国や民族や宗教、職業の役割期待。「こうでなければならない」という標準化の強制。ある種の理想への同一化や同一視、そういう原理的理想像としての父親を最初に殺してしまって、逃げるところから唐突に始まる物語。
 いきなり監督として呼ばれて、成長させられて、引っ立てられて、目の前にはジブリ・ファンの群れが突進してきていて、その広角レンジに合わせて「大ヒット御礼ビーム」を撃てって言われても困るでしょうね、普通の人なんだから。「世界を驚嘆させた偉大な監督」と「その長男」は、仕事上、なんの関係もないのだし。
 監督はビーム撃たないで崩れた巨神兵、魔法が使えない魔法使い、観客は正義と愛と涙を欲望する王蠱の群れみたいなものだ。群れは今、巨神兵の残骸を避けるように走り抜けている。ハジアのような甘い魔法(のかかったアニメーション)を求める人への、ジブリからの回答かもしれない。
 監督は神でもないし、ジブリの不老不死を約束する魔法使いでもない、まして巨神兵でもない、ビーム撃つ前に崩れますよ……『風の谷のナウシカ』のクロトワだって「く、腐ってやがる…早すぎるよなー」って言うでしょう。本人だって言ってるじゃないですか、言われたからやるんだ、仕事だから、と。会社員だったら、与えられた仕事、断りませんよね……でも実際のところ、できない仕事は断るのが誠実な対応だと思う。それでも失敗したら、一度、徹底的に干されるだろうし、干されてもやりたいなら、その時点で本気になって取り組めばいいと思う。今回はそうとう厳しい評価と沙汰ががあるでしょうから。
 アニメーションという動画で表現したかったのは何? 『ゲド戦記』でやりたかったのは何? 監督本人が掴んでいないように思う。
 それでもなお、この作品のどこかに、光が射しているように思える。傷ついた少年と傷ついた少女が、巨神兵の残骸にもたれて、夕陽を眺めているかもしれないと思う。闘いに破れた、不器用でうち捨てられた、哀しみが漂う寂寞の風景。そこにきらびやかな魔法はかかっていない。真の名を教えてくれた少女のために少年は闘うけれど、偉大な魔法使いでもない少年は、世界はおろか少女一人も救えない。いや、彼は、父を二度殺し、幻想の母までも殺す。あらゆる複合観念を殺す、それゆえにこそ、竜が、彼のアニマが、彼を突き動かすそれが、自由が折り返してくる。

 宮崎吾朗氏がまだ監督業を続けるとして、やってもらいたい作品を挙げるとすれば、三島由紀夫の『金閣寺』。次には映画版『鉄塔武蔵野線』のアニメ化でいこう。チャリンコ飛ばそうぜ。

 ところで「真・ゲド戦記 影との戦い」の件、誰がやるの? ……(^^ゞ

酷評とは違う評の参考:
見えぬものこそ(笑)@壁のしみ

Posted by gont at 03:10 | Comments (0) | TrackBack

2006年05月16日

「テルーの唄」の作曲者は谷山浩子でした(『ゲド戦記』)

2006年7月ロードショーのアニメ『ゲド戦記』(スタジオジブリ制作、宮崎吾朗監督)で「テルーの唄」(歌:手嶌葵)を聴いていて、「どっかで聴いた節まわしだなー、昔のテレビCMで聴いたサクロンの「空に響け〜」みたいだな…」などと思っていたら、おぉ? やっぱし谷山浩子作曲だ、ドンピシャ。まさに音は「見えぬものこそ。」。。。

(テルーの唄 谷山浩子 で検索されて来られる方、CDお探しでしたら、以下をどうぞ)

 谷山浩子の楽曲、メロディーラインが独特。言葉の音素と楽曲の音感の配合が神秘的で極めて美しい瞬間がある(褒めすぎか?)、言葉の一言に一音が対照する、ワンフレーズでしっかり息継ぎが入るのも独特だ……。  サクロンのCM曲(20年ぐらい前の胃腸薬のCM)だって美しい。レコードに収録されてアレンジされた曲より、CMで流れた曲のほうが美しかった。当時、夏に沢登りをやっていた時、川の碧色に漬かりながら、このCM曲を頭に流していた、他の曲は、川の碧色に似合わない。なので、美しい川の色を見ると、サクロンのCMを思い出してしまう(たまに聴きたくなるけど、もうレコードもテープも無くしてしまった)。 そういや、最近、音から遠ざかっているなー…… 「少年」をとりもどすために - Taniyama-info.blog [追記]谷山浩子って誰よ?  →昔風に言うと シンガーソングライター。 谷山浩子プライベート(パーソナル)ページ  年齢は20歳前後で循環しているそうだ。循環していなければ自分よりはずっと年上のはずだが…

 個人的な記憶。80年代、谷山浩子はAMラジオ・LFのオールナイトニッポン第二部パーソナリティもやっていました。で、自分はハガキ職人の真似事して恥ずかしい投稿してました、高校生のときですね…(^^ゞ  その後にハマってしまう「森田童子」の曲を初めて聞いたのも、谷山の番組で、でした。深夜、あまりの暗さに衝撃、な、なんだこの曲は! あれはディレクターが選曲したのだろうか?  夜の夜の夜の歌、埴谷雄高とかバタイユとか国書刊行会のドイツ・ロマン派全集の「ノヴァーリス」だとか、そういう本をイキガッテ読んでいたガキの頃の夜の話でした。

[追記]そもそもゲド戦記って? ↓
Posted by gont at 14:11 | Comments (0)

2006年05月02日

『天空の城ラピュタ』を観る-トビイシの砂漠-「飛び去るオブジェクト」を追って

1997.10.05に掲載した「黒曜石の鏃を拾ったなら……『もののけ姫』の絶望と希望」を改稿。アニメーション作家・監督である宮崎駿氏の作品『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』に見られる「飛び去るオブジェクト」を追って行き着く世界は。

>飛び去ったまま行方不明になるオブジェクト

 鈍く光る黒曜石の鏃が縄文人の絞る弓から放たれた姿を見た者はいない。

発掘調査のトレンチから出土した遺物によって推し量られる前に、縄文人は、永らく物語に住んでいた。天上界の戦で流れた矢が墜ちてきたものだとされる鏃は『日本書紀』に、巨大な足跡であるとか尿の池を残して土地を去ったと言われる巨人ディダラボッチ、デイダラ法師は、各地の風土記に、といったぐあいに縄文人の痕跡は、物語のなかにあらかじめ埋め込まれていて、ついこの間まで語り継がれていた。縄文土器のことを「管狐」と呼んで、狐が化けたものだとして忌避していた信州・八ヶ岳の麓では、ディダラボッチの伝説も色濃く残っていた。
 一方、都市およびその近郊では、たとえば縄文土器の破片や黒曜石の鏃が冬の畑にいつもころがっていたはずだけど、それらについて語る者はいつのまにかいなくなっていた。それが数千年も前の人が使った道具であり、沖積世と洪積世の狭間に人が生きて在った証拠だ、という物語に回収されたのはここ一〇〇年あまりのことだ。戦後の高度成長期の末期、失われた世界が各地で露出する。たとえば山梨県甲斐駒ヶ岳山頂にあった無文土器片。標高2966m、日本最高所における縄文時代の遺物はいまだ謎に包まれたままだ(「季刊 考古学63号 特集 山の考古学」)。郊外の新興住宅地の宅地造成は、歴史のゼネラルサーベイともいえる力技で数千年の時層をまぜっかえし、雑木林や畑という歴史しかもたない土地に、数千年前の出自を示した。それは同時に、物語に住まうモノたちに、新しい家の建て前餅を配る作業でもあった。縄文に限らず、発掘された歴史的事実はすでに死んでいて、地域活性化であるとか村おこしという物語のなかで使役される運命にある。彼らは列島改造よりも早く目覚めて餅も食べずに、自らにふさわしい場に赴いたように思う。
 巨人の物語は現在、ゴジラやウルトラマンとして子どもにも大人にも知られているが、現代的巨人像もまた、現れては去っていく運命にある。ディダラボッチと直接にはなんら関係がないのだが、これほどまでに消え去る巨人伝説がはびこった時代は、巨人が物語のなかに封じ込められた時代と現代以外にはないだろう。痕跡だけを留めて姿を消す巨大オブジェクトが挟みこまれた物語は、ディダラボッチを祖先として連綿と生き残っている。日本の歴史の活断層ともいえるモチーフ素は世界をリロードして、私たちを遺して消える。たとえば、民話の竜の子太郎は湖を干拓して母竜とともに北へ流れ下った。そして現在、腐りかかった湖を決壊させるオブジェクトが再び現れた。なにが起こるというのか。簡単には解消できない対立する二項や媒介する三項をあぶりだし、原初の宇宙である巨人の死、その屍体から発生する食物(植物・穀物)といった神話から演繹することもできる。だが、これからたどろうとするアニメーション作品に物語分析をほどこして、この文化を生み出した人間世界のアイデンティティを同定したときには、物語の力は手元から逃れてしまう。木の葉のざわめきを指して風そのものと言うに等しい。観察者は風を感じ、風に乗り、風に運ばれて見知らぬ場所に着地する。飛び去るオブジェクトを追いながら、自らにふさわしいリアルな大地に着地したかどうか、し得るのかどうか、それなら探ることができる。
 宮崎駿監督の『もののけ姫』には、飛び去ったまま行方不明になるオブジェクト、シシ神が登場する。「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明監督)は、作品自体が行方不明になって主人公が取り残されるというアクロバットを見せた。ここでは、宮崎駿監督の作品を二つほどとりあげて、飛び去るオブジェクトを追ってみたい。先行作品『天空の城ラピュタ』の巨大飛行石はまさに飛び去るオブジェクトの代表だろう。成層圏を漂うクラゲ状のお化けは、昼も夜も人間の上にあって留まっているように見えるが、誰もその姿を見た者はいない。

>飛行石、彼方の希望

 宮崎駿監督作品のファンの間でラピュタの評価は分かれている。優れた冒険活劇として評価される一方で、物語が終わりに近づくにつれて消化不良を起こすような気分にもなる。生の躍動感や爽快感を求めたファンの期待が物語の最後まで持続しなかったのかもしれない。たとえば、パズーにもシータにも、ラピュタと飛行石の謎を追い求める決定的な動機や感情に欠けている、とされる(「徹底討論「宮崎駿」とは何だったのか?」『宮崎駿の世界』ユリイカ臨時増刊号、青土社、1997.8.25)。ドーラ一家の血湧き肉踊る冒険活劇があってもなお、なんとなく、おはなし全体が静かで寂しげであり、主人公の少年パズーやヒロインのシータが地上に戻る姿に哀しみを感じるのだ。静けさに満たされたラピュタは空飛ぶ墓標だった。あらかじめすべてが終わっている世界、滅びを加速させるためだけの物語進行、どことなくはかなげな結末。父親の汚名を雪ごうという少年パズー、出自の謎を知らんとする少女シータ。どちらの動機もまた、自らの世界を未来に拓くものではなく、とりまく世界からあらかじめ刻印されている徴を払い去るための旅、過去への旅であり、幼年期清算のための弔いの儀式、だった。『天空の城ラピュタ』は、冒険物語は現代に可能か、普通の少年が冒険を経て大人になれるか、という問題意識から立ち上がった作品だとされるが、その冒険とはつまり、家族幻想を維持する力を破壊する通過儀礼のことだった。
 物語は家族のイメージに彩られている。母は天蓋を覆う大樹、家のように眠っていた。父は母の家を守る心やさしいロボット。かつては帝国であった壮大な空の城も今では、小動物と庭園に囲まれて慎ましく暮らしている、子どもたちの巣立ったあとの夫婦の世界と同じだ。かつては大いなる力が宿っていたに違いない。大樹という母の家、そこを守りつつあるいは守るために外の世界で闘う父の構図は、大家族の遺制あるいは第一次核家族の姿、戦後の日本的家族の理想であった姿にも重なってくる。独り家を守り子を育てる母、ひたすら働く父の姿。ラピュタはこうした家族の残骸であり、古さびていく家庭、都市の周囲を浮遊する墓所だと言うこともできるだろう。
 映画の最初でラピュタ人が地上に降り立った起源が示されるが、地下から飛行石を含んだ鉱石を引き揚げるために空の風を利用しているのがわかる。その意味で、飛行石の結晶は風の力の結晶であり、天と地下が人間という地上の存在によって和解したひとつの理想、ムスカの言う「人類の夢」だ。風を生み出す永久機関は、地上で自然の恵みを受けずに生きることが可能なユートピアを造り出す力を秘めてはいるが、その強大な力を統御するために人間を不安の秩序に縛り付ける。原子力発電所での作業のように、複雑なシステムを何重にも張り巡らせ常に監視する軍隊のような組織化された人間世界は、もはや何もできないまま衰退するほかない。地上での苦しい生活から自由になったラピュタ人は同時に、飛行石の力の統御を司る「お釜」を維持するために自由を失う。ラピュタ人たちはそうした生活を破棄して、もう一度、地上で生きることを決意したはずだった。その時点で、ラピュタも飛行石も破壊されなかったのは、ラピュタ人が地上での生活に失敗したときに自動的に発動する滅びのプログラムであったのかもしれない。ロボットの一人が郊外の畑に失墜して発見される。それが物語の発端だとしたら、そのロボットの失墜は始めから意図されていたのだ。プログラムはムスカという男に憑いて作動し始めるが王の末裔である彼自身もそのことに自覚的である。彼があらゆる人間を信用しないのは、何者かに操られてきた自らの歴史と手を切り、ラピュタ自体をも裏切るためなのだ。彼自身の目的は、巨大飛行石を操り世界を支配することにあったので、その意図を飛行石自体に知られないように家族物語の再演でもって偽装する。そのためにシータを手元に置き、しばらくしたのちに殺す予定だった。玉座の間でシータのお下げ髪が銃弾に切り裂かれるモチーフは映画のなかで繰り返し表わされている。シータのお下げ髪を触るムスカ、引っ張る兵隊は、明かに髪に敵意をもっている。その敵意は、大樹に対するそれと同じものだ。地下・地上・天上を結び、永久に生き続ける生命の源としての大樹、自然の永久機関への嫉妬であり、それを殺して真に男性的な永久器官を人間の上に据え付けることこそ、彼の目的なのだ。人間の植物的部分にして風を感じる器官を失ったシータは、そのとき、逃げるのを止める。古き人間の呪縛は地上において解かれなかった、シータ=リュシータ王女は人間に裁きを下し、バルス・プログラムを発動する。王の身体亡きあとの墓所で、王の頭脳とともにこの世界は終わりを告げるのだ。シータの死によって、母たる大樹と交わったオイディプス王、あるいは「生命の輝く顔」を直に見てしまったムスカは眼を失う。墓所の幻想は破壊された。王として死んだシータを救い出すことは、ラピュタを求めていたムスカと同じ古き父の幻想からパズーが抜け出す唯一の方法に違いない。そして個と個が生まれ、物語は終幕を迎える。
 パズーやシータが地上に近づけば、大樹と寂しいロボットは巨大飛行石に乗って空高く舞い上がっていく。天は神話的な死、受けとめ難い理不尽な死を回収する物語を暗示する。『紅の豚』で仰いだ蒼空には非業な死を遂げた者たちの飛行機が群をなして飛ぶ。理想のまえに潰えた父と母は、子どもたちを喪主として今やはっきりと天上に葬られた。バルスという言葉は、父母への正式な弔辞であり、産業社会に支えられた古き家族からの離脱を実行する滅びのプログラムであり、その産業を成り立たせた自然を人間から自由にする解放のプログラムだった。だが、それは大団円、なのだろうか。
 あの呪文によって、シータやパズーの住まう地上も人間から解放されてしまったのではないか。地上の「お釜」的なるものすべてが破壊されているとしたら、地上に降り立つことなどできないのだ。登場したキャラクタの誰もが、物語の終幕で地上にしっかりと降り立ったとは示されていない。あたかも、降り立つことを周到に避けるかのように。パズーとシータが地上に戻ったとしても、現実はなにも変わってはいない。「土から離れては生きられない」と強引にシータに言わせたとしても、農耕は産業の一形態として貶められ、鉱山での労働は飢餓と絶望のうちにある。スクラップ同然で地上に墜ちてきた父たるロボットは、燃えさかる炎のなかで人間を守りながらも人間によって殺され、阿鼻叫喚のただなかで遺棄された(まるでバタイユの父のように)。それが新しい人間の地上における運命であったとしたら人間は天と地の間に、あるいは地下に逃れるだろう。ドーラ一家が地上で生きようとせず天と地の間に浮遊し続けるのは、人間の住まうこの地上が「腐海」のように汚染されているどころか、人間自身が胞子なのかもしれないという恐れを抱いているからに違いない。天上と地上の間で、道具を操ることでかろうじて動的な安定を維持する飛行士としての世界が新たな人間世界なのである。そして、この世界は、空中に浮遊するラピュタと同じであり、物語は天上と地上を繋ぐ飛行石を求めて始めに戻らざるを得ないのだ。
 ラピュタを捨て、古き家も捨てて地上で生きるのなら、ラピュタもろとも飛行石も完全に破壊しなければならないだろう。「お釜」や大樹や飛行石の残骸が地上に降り注ぎ、世界は一度燃やしつくされ、大樹の木片が知られざる大地の片隅で新しく芽を吹く、古き地上世界の死が訪れ、その片隅で生まれた新しい命とともに人間も生きていく、そんな映画版『風の谷のナウシカ』に似た結末が必要になる。それをしなかった宮崎駿監督は、生命の源であると同時に死を運ぶ「核」としての飛行石を温存したといえる。今、ここで飛行石を爆破しても、その爆風は生命の風ではなく、死の嵐となってこの地上に吹き荒れるからだ。超高高度を保ち、すべての人間をその視野に治めた巨大飛行石は、その下で人間たちが共生可能かどうか、見張っている。そして、うまくいかないときは、裁きを下すために、自ら崩壊して死の嵐を地上に吹き付ける。コミック版『風の谷のナウシカ』のオーマのように、風の司のもとで裁きを下す者として育ち、風の司が倒れたときは、世界は燃やしつくされると黙示した。
 そのような災禍の危険があっても、なおも飛行石を温存したのは、地上で泣き続ける孤児たちを空中に引き揚げ、出会わせるためだ。あるいは、天使が地上に激突するまえに受け止めるため、あるいは、地下に残された労働者たちを待たせないためだ。空から降ってきたシータを受けとめたパズーの足場は、同時に、地下の労働者たちが地上に戻るために必要だった巻上げ機の上だった。巻上げ機の蒸気の風と飛行石のペンダントは同じ力をもっている。天から降ってきた者も地下から上がってきた者も、どちらも、哀しみのうちにあり、そこには少なくとも他者を迎え受けるだけの力が必要なのだ。巨大飛行石は、もっと大きな出会いをもたらす力、パズーとシータを含めたたくさんのキャラクタたちがそれぞれ別の他者に出会うための道具として、かろうじて空に輝いている。「飛行石のもとは山の上に木をはやす力を持っている、聖なる根源・宇宙の味の素です(笑)」(「宮崎駿インタビュー 時代を超えていく通俗文化を作りたい」、『映画 天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』所収、1986.8、徳間書店)と冗談めかして答えている監督は、冒険活劇映画の舞台裏でせっせと飛行石を掘り続けていたに違いない。
 そして11年後、『もののけ姫』において、巨大飛行石は破壊されたように思う。『天空の城ラピュタ』で、ラピュタ人が地上に降り立ったのが、パズーの時代より700年前だというから、ラピュタ人自身が飛行石を爆破したのだろうか。

>アシタカ、怨讐の果てに

 『もののけ姫』における飛び去るオブジェクトは、「シシ神の風」である。『天空の城ラピュタ』ではなされ得なかったの巨大飛行石の破壊は、「神殺し」というモチーフで行われた。監督は中世において希望も絶望も地上に引きずり降ろしてしまい、死の嵐と生命の突風を同時に吹かせた。現代は、すでに裁きが下された後の世界となる。「シシ神の風」は一度だけ世界を吹き抜けて、もはや戻ってこない、今後、自然が人間を守り救うようなことは二度と起こらない、と断言したようにも思える。裏返せば、この地上に残された人間たちの未来に希望を託すした、といえなくもない。物語に希望を封じ込めることは、現時点では成就しえない希望を未来に延命させることでもある。これは賭けに違いない。
「神殺し」に至る人間と人間の争い、あるいは自然と人間の争いを、行方不明になるオブジェクトを通して追ってみよう。「石火矢の弾」「黒曜石の鏃」と続いて、「シシ神の頭」「シシ神の風」と連鎖して作られていく物語は、最後に、人間の希望として現れるのだろうか。
 石火矢の弾の出自は暗い。猪に食い込んだ弾は、もともと人間へと放たれたものだ。人間として扱われない人間たちが人間となるための闘いのために考案した道具であり、物体化した人間への怨念である。怨念を宿した猪が祟られるのは当然であって、当事者に直接、瞬時に祟り返すことができない以上、思念の負債は、別の人間に肩代わりされることになる。最初、その負債は、東国の深山のムラ娘に来るはずだった。その流れを変えて、自分の命とそれを交換したのが、アシタカである。猪に放たれた矢、黒曜石の鏃は、アシタカの命である。
 大和の民によって北に押し上げられた縄文の末裔のムラは、こうした祟り神のもたらす負債によって破産寸前であったかもしれない。アシタカはこうした思念の市場に身を投げ出したわけだ。ムラの取り決めとは別の経済関係をもつような存在は、ムラから放逐されるか、自主的に出て行かざるをえない。それは、死ぬ、ということだ。ムラの世界で生きられる限りにおいての命であり、ムラから放逐された身となっては、生物学的に生きていても死んだことと変わらない。実際、ムラの人間たちは、彼が朝、ムラを出ていった瞬間に彼が死んだと認知したことだろう。死者を引き留めないために、誰も見送らないのだ。ムラの再生のシステムとは別の交換をした者は、ムラから出ていかなければならない(この点は『天空の城ラピュタ』で、空から女の子をもらったパズーが、ドーラ一家と行動を共にして鉱山町を出るのと同じだ)。呪的・物理的に無防備なままムラの外に出たならば、「もののけの輩」となってムラとムラの間にある広大な境界線を渡って死に行くしかない。
 それでもアシタカは生きる。祟り神が憑いてしまったこと、ムラの娘から再び黒曜石の鏃を受けたからだ。祟り神とは、ある思念(怨念・執念)が成就され貫徹されるまでは決して死なない、己の思念を妨げる存在をことごとく破壊しながら疾走し、荒野を焼きつくしていく存在だ。その思念は決して成就することがないゆえに、自らを焼きつくして命果てる運命にあるが、それまでは殺しても死なない。ムラの娘からもらった黒曜石の鏃は、アシタカの命を守る祈りの結晶であるとともに、大和の民への怨念も含まれた複雑な贈り物である。巨大な猪と同じように人間のムラを蹂躙していく運命が彼の死期を延長させ、加えて、ムラの娘からもらった黒曜石の鏃が彼を守り、彼自身も自らの手に宿った破壊への衝動を抑えつつ、かろうじて人間の姿をとどめる旅人となる。鏃に込められた祈りと祟り神のルサンチマンの力の拮抗。アシタカがその後、超常的な力を発揮するのはこれらの力がせめぎあっているからに違いない。もし、娘の祈りが込められていなかったら、西の果てまで火の海となっただろう。『風の谷のナウシカ』における王虫の群が暴走したように。
 アシタカの希望は祟りという負債を与えた張本人にこれを返し、自分の命を取り戻すことにある。石火矢の弾の出所に至って弾を返却する、場合によっては撃ち返すつもりだったのだろう。しかし、かの地「タタラ場」では、鉄と祟りと、人間の命とが同時に「生産」されており、自分の命とそれが交換できないことをはっきりと知る。絶望。「なぜ俺は生きているのか、生かされているのか」。その意味はない。アシタカは再び死を覚悟して、サンとエボシ御前の対立を防ごうとする。死ぬことができない自分、自分を生きながらえさせるこの怨讐の力を、怨讐のぶつかり合いの仲裁の力として使用し、彼は自らの命とともに怨讐の力さえも葬ろうとした。サンにあたるはずの石火矢の弾を人間の姿をもつアシタカが受ける。それは、石火矢の弾が猪に当たる瞬間の再演だ。死に行く者しか、この石のつぶてを受けることができないはずだ。身代わり。自ら生きることを放棄しても他者を守る人間が、怨讐の力を消す、はずだった。しかし、祟り神の思念は、人の命でも贖うことができなかった。彼はシシ神によって再び生かされるし、モロ一族の狼には、人間が救うことなど簡単にできるものか、と一喝されてしまう。怨念によって緩慢に殺されていく人間、アシタカは、最初の現代人である。
 アシタカは黒曜石の鏃をもののけ姫に渡す。シータが「海に捨てて」といって渡した飛行石のペンダントと同じように。アシタカは、祟られ死に行くしかないが、それでもいいと思ったということだ。死に行く者を生き返らせ、祟り神の怨讐の力さえ鎮めて眠らせるシシ神の頭も、彼には必要がなかった。
 アシタカは死ぬことによって、サンとエボシ御前が象徴する二つの世界を結びつける存在、人間と自然をとりなす要石、あるいは、ほとんど絶望とさえいえる距離にはばまれた二つの世界を串刺しにする、もっとも遠いところにある鏃、となるはずだった。自らの生の領域を可能な限り他者に譲り渡して世界の背景に退くモチーフは、他者を対面させる飛行石と同じオブジェクトといえる。しかしアシタカは生を意味づけるオブジェクトをすべて明け渡すにもかかわらず、背景には退かない。退いたのはシシ神だった。シシ神だけが、人から生まれる祟り・怨讐を引き受ける。サン、エボシ御前、そしてアシタカといったすべてのキャラクタが別の他者と出会うための大地が守られた。シシ神は他性の風(プネウマ=息吹き=土くれに吹く精神の風)として世界を通り過ぎるだけの存在となる。飛行石がそうであったように。
 ラピュタと同じこの結末は、ラピュタ化したこの世界でどう生きるか、の解答とはならない。人間が人間であるための闘争から生まれる怨讐を誰もがもっていて、それを投げつける手をもち、人間の誰もが受けとめきれないという結末。エボシ御前は城塞都市へと至るタタラ場を再建するだろうし、サンはエボシ御前やアシタカのいるタタラ場は襲わないかもしれないが、再び人間界を襲うだろうし、アシタカは鉄を掘るだろう。サンの意思を人間界にもちこんで四苦八苦したうえに再び旅に出、この物語を日本中に伝えるかもしれない。祟り神は各地に出没し、そのたびに各地のシシ神にあたる神は倒れるだろう。物語は成就せず、振り出しへと戻るように設定されている。
 人間自身が遠くへ、はるかに遠く赴き、そして世界を変える力を携えて戻ってくるという物語を、宮崎駿監督は「シュナの旅」で描いている(『シュナの旅』宮崎駿著、1983.6.20、徳間書店)。シュナは神人の畑から麦を盗むため、自身の命を捧げるが、他者の祈りによって人間の世界に回収される。人間と自然の円環がわずかに断ち切られ、物語が完結する。飛行石やシシ神の頭を奪おうとする行為に近い。「シュナの旅」そのものを映画にすることはなかった監督は、もののけ姫ではこうした略奪の対価を人間としていかに支払いながら生きていくか、それがいかに難しいかを観客に突きつけた。神殺しによって人間は人間となったが、人間の物語は現在に閉じて円環をなし、再演され続ける。神を殺し続ける代わりに、永遠に対価を支払い続ける現在の物語が始まる。『もののけ姫』の終幕は、現在を維持するための経済の始まりであり、永劫に回帰する物語に人が耐えうるか試しているようなものだ。

>爆破された飛行石のトビイシ

 「砂漠、楽なんですよ、空虚、何もないって。ほんとうの砂漠とは違うと思うんですけどね」(「対談 .VS山根貞男」前掲書、『COMICBOX』1984.5-6月号初出)と宮崎駿監督は、安易な砂漠のイメージを拒否してナウシカの舞台に腐海という森を置いたが、元々の着想では砂漠であったという。人間の自然に対する負債は返済不可能なまでに膨らんでしまい、荒野が、「砂漠」が、急速にこの地上を、人間を覆い始めているのは間違いない。人間が人間に対して被った負債、ホロコーストとヒロシマは、砂漠の最深部に打ち込まれた墓標である。その砂漠の最深部を舞台としたコミック版『風の谷のナウシカ』は、『もののけ姫』より凶暴であるが、どちらも、自らが生み出した凶暴な力が自分に折り返す覚悟を決めて、円環の物語を砂漠で敢えて続けよ、それが人間という生物の尊厳だ、という結末を用意した。それぞれの種がその尊厳を貫くのが適当なことなのか、あるいはそのような尊厳が存在するのか否かはここでは触れない。ただ、覚悟を決めても決めなくても、「生きろ」などと言われなくても、人間は最初から「砂漠」に押し出されている。再演される物語に、未来、は提示されない。
 永遠に繰り返される現在が、未来に一瞬でも開かれる可能性があるとしたら、あらかじめ用意されている癒しの森の幻影を捨て、命の風を耳元で感じることだ。たとえば、飛行石を求めて龍の巣に接近する飛行船の下に一瞬臨まれる不気味な海原や、稜線を駆けるヤックルの上から見る異様な朝焼けは、繰り返し繰り返しやってくる。他者の生のために死を覚悟したアシタカが見る、供する者ない死出の旅を始める不気味な朝焼けの空には、毒を含んだ風がうなりをあげている。この物語ともいえないオープニングは人間にとって剥きだしのリアルである。生まれたときからすでに始まっていて、舞台は真っ黒な積乱雲か熱風吹きすさぶ砂漠に囲まれている。ゴールに約束のカナンはないし、ゴールという言葉さえ持ち出せない。人間と自然すべてを見渡す成層圏の視点に、「大文字の希望」のように昇り、すべての人間の自然に対する罪をあがなって、未来を受け取ることはできない。飛び去るオブジェクトの強い風が繰り返し吹いているだけなのだ。だからこそ、この風をとらえて、燃え盛る砂漠の上を低く飛ぶことだけが許されている。
 アシタカはそれでも飛ぼうとはしない。サンが地上に張り付いたままだからだ。地上での苦しみを避けるために天空へ昇れないとしたら、地下に潜るかもしれない。そして、黒曜石の鏃と同様のオブジェクトを自らの内に見つけるために、掘って掘って掘り抜いて、探していくだろう。サンは巻上げ機の操作を習うだろうか。
 炭坑で石炭を掘るときに、岩盤に打ち込んだツルハシやドリルの衝撃で破片が飛んできて当たることを、「トビイシ」という。裸で作業をしている炭坑夫の身体には、入れ墨のような傷跡が残る。『もののけ姫』でアシタカに刻まれた痣は、爆破された飛行石のトビイシだ。一片の黒曜石から割り出された鏃も、宮崎駿と膨大な関係者からなる制作物も、そしてツルハシを振り下ろす瞬間に飛び散るトビイシも、それぞれに痛く美しい。それらは今、地上に降り注いでいる。

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2006年02月23日

山と本と映画と、ゲド戦記

 忙しくなってくると、山のことを考え始める。悪い癖なのだけど、自分にとって山というのはどうしても必要な自由な領域なのだった。それは、ヒマラヤ8000m峰、アンナプルナに初登頂した登山家モーリス・エルゾーグの言葉に表れている、「山はわれわれにとって大自然の活動舞台であり、生と死との境で山登りをしながら、人知れず求め、そして、われわれにとってはパンのように必要であった、われわれの自由を発見したのだ」
(『処女峰アンナプルナ』からの有名な一節。近藤等の、ブツ切りのたどたどしい訳が、8000mの高所の息切れのようで、クラクラするほどかっこいいのだ……「パンのように必要であった、われわれの自由を発見した」だけ暗唱できたのでネットで検索したら、ちゃんと全文を記してあるサイトがあった、えらい!>山岳小説・山岳漫画専門サイト「ヴァーチャル クライマー」

 ところで……先日、大学の時の山岳部顧問が亡くなった。根津の事務所で朝まで酒を飲んだことを思い出す。面倒見がよい反面、頑固な人で、対立することもあった。夏山合宿では単独でも尾根を登って合流してくるし、名前だけの「机上顧問」ではなかった。自分が卒業してからしばらくして山岳部は部員不足で廃部になり、OBが集まる機会も減っている。彼らとは最近、山にも行っていないし、山の話もしていない。
 土曜の夜にNHKでやっているドラマ『氷壁』を観て山に行きたくなったOBはいるだろうか。あるいは、井上靖の原作小説をもう一度読んでみようと思った人はいるだろうか。

 井上靖の『氷壁』を読んだことのある人の多くは、50歳代以上だと思う。自分だってリアルタイムではない、新聞の連載小説として発表されたのは昭和31年なのだし。現実の事故、北アルプスの前穂高岳で起こった実際のザイル切断事件と、その後の検証作業がモデルとなった小説だった。ザイル切断で墜死したクライマーの実兄は、条件によっては最新のナイロンザイルが安易に切断することを実証した。信州の観光地・奥上高地の徳沢園が「氷壁の宿」と呼ばれている意味を知っている人は、新田次郎の山岳小説『栄光の岩壁』主人公のモデル、マッターホルン北壁を日本人で初めて登った芳野満彦氏が、徳沢園の小屋番をやっていたことも知っているかもしれない。『氷壁』の宿の、冬の番人だ。
 自分が高校生の時、徳沢園の前から奥又白池へと上がり、そして前穂北尾根を単独で登ったのも、そんなテクストが背景にあって影響を受けていたからだし、上高地近くの山小屋に居候したのも、山と、そして山の本に強い影響を受けていたからだ。

 高校の時は山の本ばかり読んでいた。『氷壁』の井上靖よりも新田次郎の山岳小説であり、まずは文庫を全部読破、二見書房の『山靴の音』であり、ジャン・コストなどの翻訳もの、第二次RCCの青春群像と登攀記(文庫も単行本も全部だ)、「山と渓谷」「岳人」「アルプ」『岩と雪』のバックナンバー、メスナーの第7級、墜落の仕方教えます、白山書房の「クライミング・ジャーナル」……山に関係するならともかく読んだ。市立図書館で初版の『山!』(モルゲンターレル)を見つけた時は、全力でコピーした……(^^ゞ

 山と、山の本、そして、同じように影響を受けた映画と、その映画監督が教えてくれた本がある。
 失意の春、地元の映画館で『風の谷のナウシカ』というアニメをやっていた。フラリと入って観てしまったら、これがおもしろい。当時は入れ替え制なんてないし、客もガラガラだったので、朝から晩まで、何度も観ていた。次の日も、次の日も、次の日も……。この映画の監督は宮崎駿という人で、ル・グインの『ゲド戦記』と、サン=テグジュペリの『人間の土地』『南方郵便機』などから強い影響を受けている、と何かの本に書いていた。それで岩波の『ゲド戦記』を読んでみたところ、アニメ以上に強力な魔法がかかっていて、自分も強い影響を受けることになった。

 今夏ロードショー予定で制作が進められているアニメーション映画『ゲド戦記』の監督、宮崎吾朗氏は、高校山岳部出身と知った。1967年生まれ、大学は信州大学農学部森林工学科。となると、春の伊那谷の試験会場でニアミスしていたかもしれない。

ゲド戦記監督日誌 2006年02月16日 第三十六回 「ヤマケイ」ときどき「岳人」

高校生の頃は山岳小説を読みふけり、
『氷壁』も読んだのですが、
こちらは社会派ドラマの側面が強かったので、
当時は、山登りそのもののドラマを描いている
新田次郎の作品ほうが好きでした。

Posted by gont at 03:41 | Comments (0) | TrackBack

2006年02月15日

ジブリのゲド戦記、仁侠魔法映画「仁義なきアースシー死闘篇」に

V6岡田君が「ゲド戦記」でアニメ声優デビュー@eiga.com

 V6岡田はどうでもえぇ。そんなことより、ゲドが菅原文太ですよ。ジブリのゲド戦記は、東映仁侠映画になりますな。広島からトラックで多島海へと突っ込んでくる仁義なき「アースシー死闘篇」じゃけんのぉ。そういや、亀井静香を応援しとったな、2005年の夏の選挙応援で、堀江と対決して。竜じゃなくて亀が出るのか、ガメラがヒルズを破壊する映画? ……ええと、以下の唐突とも思える菅原のコメントは、昨夏の選挙を含めた株式魔法錬金主義批判の視点から出ているんだな。制作中の作品は、制作途中の現実に起きている事件・事象に大きな影響を受ける。

「吾朗監督はこの作品で大風を巻き起こし、列島にうずたかく積もった金と欲望のちりとほこりを吹き払い、徳ある国の姿を見せてくれるに違いない」と、威厳あるコメントを寄せた(同上)

 ジブリはどうなんよ、こんな短い期間でゲド戦記を作れるんですか? 電通+博報堂が宣伝するしさ……と、ツッコミたくなったので、ちょっと陣営探訪してみたところ、地味にやってるようで。

『ゲド戦記監督日誌第十三回 雲間からの光』

帆に風をはらんで進んでくる船の背後から、
雲間から降る光と竜が迫るとき、
雲、光、竜、帆船はどのように配置されていればよいのか。
そしてそれが、つじつまが合いつつ、
絵としてもドラマチックな状態で進んでいくには、どうしたらいいのか。

 オーソドックスに、かつ、細かいところまでを考え抜く地道な作業を積み上げて、仁侠魔法映画を完成させてほすい。『ルパン三世 カリオストロの城』で、ルパンは偽札製造を企む都市国家へと乗り込んで花嫁の心だけ盗んでいってしまうわけだけど、さて、息子さんは、株バブル国家に乗り込んで何を盗んでいってくれるのか、楽しみです。

Posted by gont at 13:59 | Comments (0) | TrackBack