海底の石貨に×印を書いた後の人類について

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急速な円高と世界同時株安(ドル安)のなかで、どうするべー、と考えてみました。

長い話しで恐縮ですが、かいつまんで言うと「みんなで作り上げたものは失われたけれど、作ったみんなはスゴイよな、また作れるよ、作ろうぜ」みたいな話し。

山に登ると、登山道に沿った大きな岩に赤や黄色のペンキで丸(○)や矢印(→)が描かれている。道がわかりづらいときは安心するんだけど、あまりに多いとウルサクなってくる。
分岐点に石を積んだケルンがあればいいじゃないか、などと思ったりもする。
過剰なマーキングは所有を誇示しているに過ぎないって感じで、まるで私有地を歩いているような気分になる(私有地だったら仕方ない話しであるけれど)。

では、描くほうに回ったらどうなるだろう。
登山道の石にペンキで丸や矢印を描くことになったら?

昔、登山道の補修作業で行ったことがあって、岩にペンキで文字を書かされそうになったことがある。実際には書かなかったけれど、そうした行為には、何かざらついた感情というか、違和感がある。それは自然保護の観点からというより、もっと素朴な違和感、嫌な感情を喚起させる。大地に何かを描くこと自体には、何か、不気味な感触を伴う。

草原に柵を作り、万里の長城を築き、国境線を定規で引いたように線引きし、自然のなかに人間的な徴(しるし)を刻印する作業だ。そうやって線を引いたり、大きな丸を描くことで、自然から人間にとって有意味な価値を作り出している(削り出している)、ということになる。あたりまえの話しではあるけれど、そうやって人間は自然からいろんなものを頂戴してきた。その延長線で開墾で樹林を伐採もしている。


登山道を歩く登山者のために岩にペンキで矢印を描く? そんなことで文句言う奴がいるのか? その程度で何を言いだすのか、と思われる人のほうが圧倒的に多いかもしれない。

日本列島はあらゆるところに道路が作られているから、こんな話しは笑い話しに過ぎない。道路をせっせと造れるのは、人里離れた田舎の山も、その多くは私有地だから、だ。都会に住んでいる人間が思うような公共財なんかではなくて、私有地であり、自分の土地だからいくらでも道路が造れるし、道路を造ることによって大変な経済効果をもたらす、どこが悪いんだ、都会に住んでいる人はまったくわかってないよ、と。いや、私有地でなくても、市の財産、県の財産であれば、市や県が決定すれが道路が造れる。そもそも、山だとか自然は無価値、いや、スムーズな物流、流通を遮断する邪魔物であり、都市部からの経済的恩恵=金を止めてしまうマイナスの要因だ、と。

大昔は公共財の価値を誰もが認識し、公共財の価値をそのままの大きさのままで共有できていたのだ。公共財が1兆円の価値があれば、みんなが1兆円の価値を手にしていた。田舎の山は文字通りの食糧の宝庫であったかもしれないけれど、今は食糧はスーパーに売ってるから、不要だ。資産税だけとられるぐらいなら、道路でも通したほうがマシだ、ということになる。その土地から出た代議士は、国から予算を分取っては、出身地に道路を造りまくる。価値を失った土地が道路を通すことで価値が生まれるわけだから、錬金術師であり神様だ。代議士にとっては、自分の出身地は私有地という感覚になっていく。そして、意味もなく道路ばかりが造られていく。

そして今、道路を造ることで壊れてしまった山、自然は、「人間にとって価値のある道路以上の価値はない」ものと確定されてしまうことになる。地方自治体は財政が逼迫していて、有料道路にしてもお金は入ってこないし、道路が痛んでも補修費は出ない、傾斜地に作られた道路の路肩が崩れたら山全体が崩れていく。そうして、山も自然もすべてが壊れていく。

別に日本だけの話しではなくて、世界全体で、普通に起こっていることだ。
人間が住める地球の環境も、あっさりと壊れようとしている。

登山道も、人が通らなくなれば草が生い茂り、踏み跡が消え、あれだけ目立つように描かれた○や→も見えなくなっていく。だが、一度ペンキで描いてしまったものはなかなか消すことができない。古い時代、自然のなかに直接的に描き込む行為は宗教的行為だったし、無意味に「消えない文字」は「書かれて」いなかった。


身近な話しをする。

自分は住んでいるのは埼玉なんだけど、近所の雑木林が減ってきている。くぬぎや楢など、ドングリいっぱいの武蔵野の雑木林が消えていく。私有地なら仕方がないのだけれど、先日、市が管理している雑木林の半分が突如、伐採されてしまった。
理由は定かではないのだけれど、誰かが「あの公園、落ち葉が多くて掃除に困る、枯れ葉への放火事件も起こっている、どうにかならないか」と市に相談したらしい。土木事業に金を使いたい市は、普段は重い腰で何もしないくせに、こういうときは、ここぞとばかりに重機を入れて、雑木林を伐採し、開墾してしまった。そして、枯れ葉をすべて取り除き、黒い地面を露出させて、意味のない道路を造成して、「清潔な公園のような場所」に作り替えてしまった。その雑木林は傾斜地であり、雑木林がなければ崩れてしまうだろうし、枯れ葉や落ち葉は木の栄養分だ、それをすべて取り払ってしまうのは馬鹿げている、ということが市にはまったく理解できていないらしい。
市の管理する雑木林は公共財なのであって、都市近郊の雑木林はそれが残っているだけで価値があるにもかかわらず、土木事業で金を使いたいがために伐採し、市民が共有する価値を減じたことについては、猛省を促したいと思う。

何がエコだよ、聞いて呆れるぜ! と思う。

雑木林の伐採行為をよく観察すると、伐採することが目的なのではなくて、無意味な道路を造って金を動かし、そして、「埼玉美ヶ丘の森自然公園」などと、自然の中に美辞麗句を並べた暴力的な文字を書き込むことが真の目的だと思った。

かなり話しが脱線したのだけれど、世界中すべてで、まさに地球規模で、本来は公共財であるべきものが、私有財として勝手に利用、処分されている。私有財産制を捨てた共産主義がいいという話しではなく(中国やロシアをみれば国家としての共産が破綻してるのは明かだし、資本主義だって「市場」は共有するので大切にする)、すべての者が共有しているはずのものが奪われている。

重要なのは、分有ではない、ということだ。分けて持つというのではなくて、価値そのものを共有する、ということの意味が失われている。

共有されていた大切なものが破壊されたり、奪われることで、世界は混乱に陥る。それは価値を支えるものだからだ。


映画の『インディー・ジョーンズ 魔宮の伝説』では村の聖なる石、サンカラ・ストーンが邪教集団に盗まれて崩壊の危機に陥る。石の価値は、村人、邪教集団の司祭、ジョーンズ博士にとって違うものだが、もっとも石の価値がわかっていたのは、村人であり、ジョーンズ博士もそれに気づくのだ。ジョーンズ博士は博物館に放り込む宝を収奪するだけの行為は嫌悪している。

現実の話し。
バーミヤンの石仏が破壊されたのが2001年春。当時はたいしたことのない事件のように思われ、たいして報道もされなかった。しかしその時点で、アフガニスタンは飢餓と貧困にあえいでいた。人類の宝とも呼ぶべきものが破壊された結果がどうなったか。

その年に起こったのが「9.11」、アメリカ同時多発テロ事件。その直前には、アフガニスタン北部地方の精神的支柱であったマスードが暗殺されていた。「9.11」で破壊されたWTC(ワールドトレードセンター)は、5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィス/商業センターで、当時はモルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズの本社を始め、世界の銀行・証券・金融会社の多くがこぞって入居していた(wikiによる)。
アメリカは覇権を失うまいと、アフガンに侵攻し、イラクにも侵攻していった。それは逆効果だった。 WTC破壊によって奪われたのは、人命と経済だけではなく、アメリカ型の市場主義経済の信頼性だった。失われた信頼性、信用は、互いが共有すべき価値を持つことによって可能だというのに(それこそがコミュニケーションだが)、アメリカは完全に読み違えた。
そして2008年3月、国内、国外を騙してきたツケなのかはわからないが、サブプライムの破綻で、世界的な金融危機、信用収縮が起ころうとしている。それに追従している日本もまた、窮地にある。


少しのんびりした話しをしよう。

ミクロネシアのヤップ島では、かつて、フェイという石貨が使われていた。
平べったい丸石に穴を空けた五円玉のような石。
価値は、石の大きさとその由来で決まっていた。
高い買い物をしてしまったら、大きな石貨で支払わなければならない。
穴に棒を通して江戸時代の籠屋のように石貨を運べるならまだしも、
人間大の大きさになってしまったら、とても運べない。
それで島民たちは、「運んだことにしました」「運ばれたことにしました」
という口約束でOKにした。つまりは信用取引が開始された。
いちばん裕福なフェイの家族は石そのものを所有していなかった。
というのは、その家族の先祖が超巨大なフェイを筏で運ぶ途中で
嵐に巻き込まれて海の底に沈んでしまったから
島にはないのだ、という。
19世紀前半まで、ヤップ島ではそんな経済生活が営まれていた。
そこにやってきたのがドイツだ。

19世紀末にドイツはヤップ島をスペインから買い取った。
そしてヤップ島内に道路を造らせようとしたのだけれど、
島の人たちは今の道で充分、不要だ、ということで働かなかった。
それでドイツ人のやったことは、島にあった巨大なフェイに×印を書いてまわり、
あのフェイは無価値だ、いや、ドイツのものである! と主張したのだ。
島民は「えぇえええ?? そ、そんなぁ!」ということで、
心情的には超お金持ちから大貧乏人になってしまったのだった。
フェイはなんとしても取り戻さなければならない。
それで仕方なくドイツ人の言う道路工事をやらざるをえなくなった。
ドイツ人は道路が完成すると×印を消した。
これで島民は裕福に戻りましたとさ……おしまい。

笑い話しのようでいて、笑えない話。ドイツ人が、共有財産であるはずの石貨に×印を付けてまわって権利を主張してから、ヤップ人はいきなり負債を負ってしまった。新しい価値の公準が立てられ、それに巻き込まれていって、ヤップの文化も変わっていくことになる(ドイツからすりゃ「怠惰な土(着)民が労働するようになって近代化した」とでも言うんだろうけれど)。

昔、貨幣経済の誕生に興味があって、人類学をかじったことがあり、互酬制やクラの交換の話しと一緒に、頭の片隅に残っていた。


ここで大きく脱線して、ヤップ島の石貨について追っかけてみる。

まず、「石貨」とは何かだけれど、だいたいはイメージできると思う。
「はじめ人間ギャートルズ」が骨付の肉と一緒に持っている、でかい石のアレですよ(って、同世代しかわからないか)。

日本でも石貨は見られる。東京の日比谷公園に野ざらしに置いてあるミクロネシアの石貨。
東京シティハーフマラソンのスタート時に公園内を歩いていて見た。こんなところになぜ置いてあるんだ? と思った。

今はネットで写真が見られる。

□石貨

ビッグマネー@紀ブンな写真館

お金??@ようこそぉ当店へ

日比谷公園にあるミクロネシアの石貨は、直径1.35m、大正時代に当時1000円の価値があった、とのこと。下のサイトでは、石貨だけでなく、説明板も写真に撮られているので、解説文が読める。
「ヤップ島支庁長 寄贈」と書いてあるけれど、ヤップ島は1914年~45年までの間、日本の統治下にあり、軍事拠点だった。分捕ってきた、とまでは言わないけれど、日本のものだから持ってきた、ということなのだろう。30年も日本だった、というのはちょっと驚く。石貨は「日本銀行金融研究所貨幣博物館」にもあるそうだ。

□石貨と経済について書かれた本

『貨幣の悪戯』(M・フリードマン、三田出版会)

□『貨幣の悪戯』の感想が書かれているページ

Novel/貨幣の悪戯@Sprawl on Garden

上記サイトを見ると、『貨幣の悪戯』の冒頭にヤップ島の話しが出てくる。1933年金融恐慌の原因を追及していくなかで、貨幣の幻想がわかってくる、ということか。

□『貨幣の悪戯』からヤップ島のフェイに関する文章を抜粋しているサイト

ヤップの経済と貨幣について@ヤップ島プロジェクト「子ども知恵図鑑」

極めて刺激的で、同時に2008年3月の現在を照らす一文が出ている。
「連邦準備銀行はドイツ政府が石貨に「黒ペンキでX印を付けた」のと同じようなことをしたのである」
フランスは手持ちのドルと金を交換したが、その金はアメリカ連邦準備銀行内にある金で、名義だけ変更したのだ。このニュースをきっかけに、世界は恐慌へと暗転するのだ。

□ヤップ島のフェイについて書かれたページと関連書籍

石貨の話@ヤップ島プロジェクト「子ども知恵図鑑」

上と同じサイト内。「石貨はもとからヤップにあったものではなく1500年から2000年前、1つ1つ400キロも離れた隣の島パラオから運ばれてきた」

これ自体、謎だ。なぜ石を船で、いや、イカダで運ぼうとしたのか? それほどの価値があった、ということだろう。これについては、

「『石貨の価値はその航海の困難度と犠牲者の数によって決まる』」

と書かれている。この文章は、下記の本からの抜粋だそうだ。
ミクロネシアで暮らす―協力隊が作った初めてのテレビニュース『ミクロネシアで暮らす―協力隊が作った初めてのテレビニュース』

□ヤップ島の石貨についての人類学からの解説

交換が作る社会 -ミクロネシア・ヤップ島の「原始」貨幣経済-@
ここではフェイではなく、「ライ(rai)」と紹介されている。また、石貨には固有名とその歴史的由来、石を切り出し整形した労働の成果に加えて時間の蓄積そのものにも価値があるとされているようだ。

□ヤップ島の石貨と航海と文化について

WR1422 ヤップ~パラオ間の石貨航海について(海遊学舎・拓海広志)@日本発地球メディア”World Reader”

気になった記事を抜粋させていただくと、
「ヤップは楽園的な外見とは裏腹に意外に自殺率の高い島なのですが、その背景にはこうしたアイデンティティの喪失という問題があるとも指摘されています。それで、数人の古老は偉大な航海者であった先人たちに倣って再び石貨を運ぶ航海を行い、石貨を通じて物語と価値を共有してきた島の文化を見直そうと言い出したのです。そして、私たちは縁あってこのプロジェクトを全面的に支援することになりました」

ヤップの文化を失わせたのはアメリカのドルだった、ということだ。

□ヤップ島の石貨について書かれた、経済の本

ゴールド ― 金と人間の文明史
『ゴールド―金と人間の文明史 (日経ビジネス人文庫)』(ピーター・バーンスタイン著、鈴木主税訳)

こちらでのヤップ島の石貨の取り上げ方は、税金と公共事業の関係(政府からの支出)のようだ。

(この「ヤップ島もの」は、貨幣の歴史、社会というものを考察するには根源的な何かを指し示しているように思える。おもしろそうだ……)


元に戻る。

ヤップ島、フェイで検索すると、某掲示板では、「ドイツ人は海底に沈んだ超巨大石貨にまで×印を書いてしまったので島民も諦めた」というバリアント(異聞)まで生まれている。どうやって沈んだ石貨に×印を書くのだろうか?

いや、このバリアントのほうが、現実を言い当てているかもしれない。

海底に沈んだ石貨は、究極の価値の象徴だ。触れ得ない価値だから。
石を切り出して運んできた島民たちの、勇気と知恵と労働の価値を示すものだから。

それが毀損され、収奪されてしまったら?

人類が生み出した究極の石貨というものがあったとしたら、今の時代、大きな×印を書かれて、毀損されようとしているのかもしれない。

そんな石貨があるとすれば、それは、人間が生きてきた、生きられる世界を築き上げてきた、歴史的で重層的な価値を表したものだろう。また、それらを育んだ環境にこそ価値があるのかもしれない。
北極海の氷であり、大地を流れる真水であり雨であり、それによって育つ樹林であり、大気であり、おいしい草や野菜、家畜であり、大地からの栄養によって作られている海そのものであり、そこに育つプランクトンであり魚であり、それはつまり人間の生きられる地球であり、人間を支える共有財産であり、つまり、人間の価値そのものだ。

神聖にして不可触なる人類の至宝、深海に眠る石貨にペンキで「×」を書き、その「×」印は石貨の共有の放棄を示す意味だと教え、かつ、石貨の権利を主張し、我らが価値を貶めんとする者たちがいる!

それは……人間自身だ。
この地球が毀損されるということは、人間は地球を究極の価値とは認めていない、ということかもしれない。

究極の価値とも言われた民主主義と市場経済は価値の破壊を押しとどめることはできない。

人間は、人間のために、究極の価値の所有(への欲望)を放棄しなければならないが、世界のあらゆるところで価値の争奪、命の争奪が行われている。

その結果として起こることは、究極の価値を放棄するのではなく、破棄すること、それを価値とみなさないという破壊行為。それは単なる戦争ではない、価値を破壊する行為、すなわち自爆テロである。
万人は万人にとってそれぞれに代替の効かない価値があり、その価値は分有されているのではなくて、それぞれに得難い価値として、そのままで共有されている、それが人間の尊厳の基盤だと思うが、それが一つ壊れたら、尊厳の基盤もまた崩れる。

では(大きく振りかぶって)人類はどうすりゃいいのか。

大切にしなければならない石貨が、まだ作られていない、と考えてみる。

要するに、人類が共同(共に働いて)で何かを作り出したものでなければ、それは究極の価値とはみなされない、ということだ。
人類の新しい石貨は、それはたとえ見えなくても、有史以来の人間の膨大な労働の集約であり、それを成し遂げた人間の価値を証明する、人類はそのことだけを共有することで、自らに尊厳を持ち、そして他者の尊厳を保つようなそれだ。

そんなモノ、コトができるだろうか。子どもからお年寄りまで、病床にある人も、すべてが参加できること。

究極の石貨の条件があるとして。

・人類が共同で作るモノ(コト)
・人類が共有できる価値(分有でも専有でもない、作られたそれの価値そのものを共有)
・誰もそれを取りに行かない(行けない)
・誰もそれの所有(独占)を宣言しない(できない)
・それは作り出した途端に誰にも届かない場所に失われている、がゆえに価値をもつ
・略奪と独占という行為が行われること自体が、価値を減じさせるものである
・価値を毀損しないため、互いに攻撃しない、戦争を仕掛けないという紳士協定が必要
 (協定は文字で書かれてはいけない、宣言文や条約といった証書はあってはならない)

ちなみに……「エコ」というのはわかりやすい価値。
でも、それが「新興国の頭をピコピコハンマーやハリセンで叩くための戦略の略語」であったり、エスタブリッシュメントの存続のためだけに使われる各国共通の「環境税を導入するための調子のいい標語」であれば、そんなものはいらないし、核兵器とならぶ人類の究極の悪の一つだろう。

究極の石貨のようなモノ(こと)を生み出すことが可能だという根拠はない。希望の先取りができて、彼方に着地してはいない。何も見えていない。逆に絶望する事例のほうが多い。それでもなお人類はそれを作り出すことができる、という希望のみが、いや、それこそが価値を支える価値になるはずだ。

なんだかSFのような話しになってきました。まだモヤモヤ考えてますが、また何か思うこともあるでしょう……