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2006年01月12日

『男たちのYAMATO』-「泣きコンテンツ」で男泣きするという罠?

[ 0-日々のFLAG ]

年末年始にちらっと観た映像作品の話、のついでに。

『男たちのYAMATO』
 戦艦大和の壮絶で悲惨な戦いを描いたこの映画には、1000円なら払ってもいいかな、と思いました。反戦映画みたいな扱いをされることもあるようですが、普通のカドカワの邦画ですね。中年男性なら大和撃沈のストーリーを知ってる人も多いはずですから、映画のストーリー自体に驚きはありません。子どもの頃にプラモデル作ったり、戦記モノを読んだりした人なら、知っている話です。逆に言えば、情報をまったく持っていない人(日本が昔アメリカと戦争したことさえ知らない若年層)が見たら、重すぎ、マジ語ってるんの? という反応があるかもしれません。ゆえに主題歌に長渕はいらんですよ。若い人に歌わせればいいのに。「おいらの家まで」のメロディをバラードにした感じで歌われても泣けません(当初の予定を強引に変えて長渕を起用したのは、カドカワのオッサンらしい(^^ゞ )。映像に関しては、最初、カメラワークで目がチカチカしちゃって悪酔いするところでした、人間を映すならあんなに背景をグルグルと回す必要はなく、固定で引いただけで充分では……。戦闘シーンについては、こういう感じだろうなぁ、嫌だなぁ、と本で読んだ戦記ものの記憶を追認するような作業が頭の中で行われ、途中で、それは違うだろ、ありえん、などと思ったりもしますが、些末なことは、まぁいいか。
 戦争を扱った邦画、もっとたくさん作って欲しい。第二次世界大戦の苛酷な戦い、それぞれの戦線を(硫黄島、比島、満州でもなんでも)、最新の技術で再現して映画にしてほしいですね。

 と、それ以上のことについては、仕事が終わった深夜につらつら書き足しているうちに収拾付かなくなってきたので、適当に投げ出してみる。あとでこれを読み返して、削除すっかもしれない。なんだか、海に投げ出された漂流者が自分の掴まっている板の形が悪いのだのなんだの、と言ってるような感じもして。

 仲代達矢の迫真の(目玉の)演技と、鈴木京香の艶やかさの少し欠ける(ホントに船酔いしているのか青白い顔の)演技の後ろで、少年は何かを感じとり、決意し、お話が終わる。悪くないオチだとは思いますが、それら現代の話があまり効いていなかったように思える(タイタニックみたいな物語構造)。最悪の事態に向かって盲目的に突き進んでいく人々に、引き返すことを教える、気づかせる、その先駆けとして無謀な作戦で死んでいったYAMATOの男たちの死は報われたのかどうか、それは……あの漁舟が戻れたかどうかにかかっている。
 いろいろと文句を言いながらも、不覚にも泣けてしまったシーンもある。「泣きコンテンツ」には用心してたのに、やられた。そう簡単に泣いてはいけない。男だから泣くな、ではなくて、泣いたら忘れてしまうぞ。忘れていいことと悪いことがある。
 「泣きのシーン」、それこそが忘却の罠だと思う。映画の話とは違うけれど、某テレビCMでキムタクが缶ビール片手に『フランダースの犬』最終回を観て泣くシーンがある。子どものネロと犬のパトラッシュが死亡する瞬間を何度も見て泣ける、それを売りにするというNTTの神経がわからない。感動の涙すなわち金、って感じがして、なんだかビール以外の苦い味がする(もっと言わせてもらうと、戌年だからといってこんなCMよく作れるよ、能天気で悪趣味な連中が世の中の空気を支配していることの代償は、日々の事件・事故に現れているな)。CMで何度も繰り返される死は、繰り返されることで圧倒的に軽くなっていく、無価値にされていく(ポイントがたまる、無料になっていく、と言ってもいいが)。暖かな部屋と冷たい教会の床、生と死、この距離感・遠さを演出し、涙を誘い、そして次の瞬間にはすべてを忘れさせ、再び同じ涙が繰り返され、涙の使用料の請求書が送られてくるなんて……それって戦争と戦争を娯楽として観る人の関係じゃねーのか? と思う。
 『男たちのYAMATO』は歴史について「もう忘れていい」と「忘れるな」が同時に言われている。記憶の受け渡しができた戦争体験者はその記憶を忘れてよく、それを引き受けた者は忘れてはならない、そういう歴史的記憶の遺産相続の話だ。この遺産は負の遺産であり、受け渡しは誰もが嫌う。その記憶を受け渡すには、ひとつの娯楽、映画としてパッケージングする必要があったのかもしれない。だが、この映画という回路には、記憶すべきことが記憶できないようなシステムが付随している。
 悲惨な記憶を娯楽とするには、他者の悲惨な死を一時的にも体験させ、すぐに現実に引き戻し、自分の安全な位置との落差を見せつけることによって可能になる。その落差は一時的であるから耐えられるのであり、すぐに忘れなければ身がもたない。すぐに忘れるための方途、それが泣かせることだ。人はつらい記憶に苛まれる時は、泣いて眠るしか手がないのだから。ある種のつらい記憶の忘却のために泣くことを戦術的に利用するやり方が、戦争と、そして戦争映画自体にも内在してないだろうか。
 近親者の理由なき死別と哀しみこそが、何事か語りうる特権的な立場、国民の立場を有する、無垢の無力の、犠牲になったがゆえの勝利者となれるのだ。このように人を国民に教化するのが戦争であり、個としての哀しみの記憶、戦争の記憶自体は泣いて忘却するのが望まれる。忘却されつつある戦争の記憶は稀少であるがゆえに、過去から現在に輸出される。そして、現代の人がそれを見聞きして泣き、再び忘れられる。ほんとに泣いていい人(当時のみなさん)が泣くこともできず、泣かなくていい人(現代人)が泣いている。過去に流れるはずの涙を、今、売っていいのか、それを我々は娯楽として買っていいのか。涙を買ったら漏れなく付いてくる歴史的記憶とやらはどうするのか、泣いて忘れろ、というのだろうか。他人のために涙を流すのは大事な共感能力だと思うけど、涙を流すことで、その発端となった事実そのものを水に流して忘れさせるという「泣きのカタルシス」には乗りたくない。
 『男たちのYAMATO』には泣いて忘れるというシーンがいくつも出てくる。水上特攻前の男泣き、慟哭、「お忘れください」。多くの人々が嫌だと思いながらその行動を止めることができず、最後の最後で泣いて個別の生を忘れ、犠牲の死を受け容れる、そういう全体主義の心と行動の問題は泣かずに冷静に吟味し反省しそのカラクリを明らかにしたうえで幕引きにすべきだと思うのだけど、果たして、戦後の日本でそうした検証が行われてきたか。
 「泣きコンテンツ」とともに泣いてオシマイにしたら、その後に来るのは何か。「すべてを忘れる陶酔・歓喜・涙のコンテンツ」かもしれない。たとえば、某テレビ局の言う「そこには感動がある」といったコンテンツには用心しようと思う。そこには「個」に対する「全体」(国家、民族、階級など)の優位性を強調する思想や運動が忍び込んでいる。全体を支える幻のユートピアへ向かう(「個」を投企する)ように急き立てられるような時が来るかどうか。いつ、誰が、どのような仕方で、「すべてを忘れる陶酔・歓喜・涙のコンテンツ」を出してくるか。
 最初に書いた疑問、子どもが操縦する小さなあの漁舟は大和沈没の海上から港に帰れたのか。この映画では描かれていない。子どもに日本の舵を任せることにしていいのか。それじゃ大江健三郎の最近の発言の傾向と同じではないか。決着すべきは、その世代の人間であり、そこで可能な限り食い止めるべきであり、負の遺産を未来に残すべきではないと思うのだけど、どうだろう。それでなくても、背負わされているモノ、ツケが重いのだ、そうした負債の計算は脳が拒否している、だから、未来について一切の思考を停止して、ほどほどに生き延びられたらいいと思う子どもが増えている(自分のことだけで手一杯なの)。
 舟は方向を見失い、遭難する。夜、煌々と照る月の下で始まる少年漂流記(女の子も乗ってない舟でリアルに進行するサイバイバルのドラマ)に出演する若者はいないだろう。だって、危機から脱するなんてたいへんだよ、マイナスからゼロになるだけなんだぜ? 仲代達矢は再び倒れ(心臓悪いのに無理すんなよ)、鈴木京香は気分が悪くて舟の上で寝込み(初めからムチャな要求するなよ)、海は荒れてくるし、どうしたらいいんだよまったく……海上保安庁来てくれよ……圏外かよ……どうしてこんなサルガッソーみたいな場所から日本人のオレは人生を始めなければならないんだ? その責任はどこにあるんだ? いや、これは夢に違いない、そうだこれは夢なんだ……沈没点の冷たい海面で怨霊が渦を巻いて……漁舟がメールシュトロームの渦の中に巻き込まれ……時空を越えて、あの時代、あの時に転移し、戦艦大和で戦いを再開して、その戦線をクリアして沖縄特攻して主砲で蹴散らしてやれば……そうだ、日本があの戦争で勝ちさえすればいいんだ、戻ってやりなおせばいい! そこをクリアしていない限り、勝てないんだ、これはゲームだ、セーブして戻ってやり直しをする、何度でも。だが、そうした妄想ゲームのシナリオが展開される前に、日本のまっとうな大人が、探照灯を掲げて舟を救いに行けるかどうか、それもこの映画では語られていないことだ。二重遭難の危険を省みず日本の未来を助けに行き、日本に還ることができた時、その場所に日本という国がまだ残っているかどうかはわからないが、少なくとも、涙の海で溺れている人を助けにいくには、泣いている暇はない。

『戦闘妖精雪風』の最終章(アニメ)
JAMとの戦いを地味に淡々と描いた作品として生まれ変わらせて欲しいなぁ。いろいろと言いたいことはすでにみんな言われてるから、もう、いいんだけど、それでもなぁ、通路を破壊しておしまい、って、夢落ちと同じやん。この通路って無意識−意識を繋げている通路みたいなものだと思ってたんだけどねぇ。。通路を遮断しちまったら、意識があるのに黙り込んでる人(黙狂)か、意識がないのにしゃべっている人(寝言)か、どちらかになる。もしかして地球はJAMに支配されちまったのかな。なんせ、このgont.netが載ってる鯖も……。
 友達に「観た?」って聞いたら、昨夏観たけど記憶にない、だそうで。

『サムライチャンプルー』(アニメ)
 ずいぶん前に友人から観ろ観ろと言われてようやく借りた。こういうの、ありかよ! うまいなぁ、よくできてんなー、おもしろかった。時間があれば引き続き、次を観たいものだけど。
 他の友達に「観た?」って聞いたら、はるか昔に観たけど録画もしてない、だそうで。

Posted by gont at 2006年01月12日 14:12 | TrackBack