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ゴントの書類綴
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山に持っていった食糧のゴミを家に持ち帰った。途中で捨てることができない。上高地でも、途中の高速道路のサービスエリアでも、JRなどの駅でも、ゴミを捨てるのがためらわれる。それで、すべて持ち帰って、分別して、捨てた。それで思ったのは、外に捨てられない何かが、すべて家庭に持ち込まれるようになって問題が起こっていないかどうか、だ。それがなんらかの心理的な問題に繋がっていないか、ということ。本来、公共の問題であるものが、すべて私的な問題にすり替えられて、押しつけられて処理されていないかどうか、そういう話だ。
高速道路に家庭ゴミが捨てられて困っているという。休みに中央道のサービスエリアに入ったら、報道されていた「ゴミを捨てるな」の看板が出ていた。確かに、家庭ゴミをわざわざ捨てに来るのは問題だろう。だけど家庭ゴミのほとんどは企業が作った過剰包装から出たゴミなのであって、よく考えれば、家庭ゴミではなくて、企業ゴミだろう。過剰包装の上乗せ価格を支払ってモノを購入し、ゴミ処理の税金を支払って自宅にゴミを持ち帰ってゴミを捨てるというのは、なんとも理不尽だ。消費者のすべてが過剰包装を望んでいるわけではないのに。飲料水の自動販売機には必ずボトルを捨てるゴミ箱が併設されているわけで、何かを販売している場所では、それを回収するゴミ箱も用意すべきだ。テロ対策だからといって、JRなどの駅にゴミ箱がないのは困る。なぜなら、モノを販売して、ゴミも発生させているからだ。
本来、全体のシステムの問題なのに、それを部分の個の部分で処理させるという、民営化の弊害が、さまざまな分野で問題を引き起こしていないだろうか? 家庭・家族を巡る暴力などもまた、こうした社会的問題の個的な家族問題へのすり替えのような気がしてならない。本来、外部との軋轢で生じる葛藤や抑圧の処理が家族の内側で爆発する、ということ。最近の家族を巡る暴力事件を見ていると、なんとなく、ゴミ問題と通底しているように感じられるのだった。そして、こうした内的な問題の圧力を全体として外化してガス抜きするシステムが、国家には内在している。その奇妙なカラクリについて、しばらく注視しようと思う。