The GOOD Desert/「悦ばしき砂漠」へ向けて

前提としての「砂漠」から出発するためのノート。

edition.1.0 1997.09.23
edition.1.1 1998.12.21
edition.1.2 1999.10.07

のち、2004年くらいまで、自宅サーバ(noahz.dyndns.org)で公開していた文章の再録です。

The GOOD Desert/「悦ばしき砂漠」へ向けて

前口上
Welcome to gont’s “The GOOD Desert”

1945年以来、すべての人間は、それまでの人間とは
まったく別の生存の条件のなかで生きている。
核の傘の下には見えない黒い雨が降り続いている。
それはあまりにも決定的な条件であり、
人間が言語を使いだして人間となったときと
同じ程度において、新しい変化を被ることになった。

そして日本。
この国にあるのは都市、都会とその残余。

都市の界隈性にも、田舎のムラ的習俗にも
あまり交わりのない子どもたちが、
住宅造成地のサラ地の上で
新しい遊びを発明していた東京オリンピック~万博の時代。

それから高度消費社会、市場経済は
国と国民の隅々まで浸透していき、
イメージのスクラップ&ビルドを繰り返してきた。

私は見る。その光景を、ウラン溶液をバケツでかき混ぜ
放出された、死の蒼い光に照らされたモノとコトを。
ジャンクフードとガラクタのオモチャにまみれた、
自由電子に飲み込まれていく世界を。
不自由に電子を操る者たちを。

人は社会をそれぞれに形容し、世界として受け入れ、
あるいは、受け入れない。
たとえば、言い古された言葉、使い古されたイメージ、
「荒地」「荒野」「砂漠」「廃墟」。
そして「電子砂漠」。

電子砂漠の実験場は人の生きる域としてありうるのか。
逃れえぬ砂漠に迷い込んだ経緯を確かめ、迷走しつつ、
遊走する異電子として生きるアウトラインを描くため、
この文章を記す。

砂漠へ 1

1960年代に日本の都市近郊で生まれた者の宿命なのかもしれない。
砂漠へ、砂漠へ、と進むことが。

煙突が建ち並ぶ工業地帯の隣。
夕方には、遠くで火力発電所の灯火が輝いて見える。
それは、一種の希望でもあったが、
私を消防士にさせたいような、絶望でもあったと思う。
目の前には産業道路。
渇いたコンクリートの団地の前で消火訓練を行ったとき、
そんなものでは消えやしないと、幼い私は思った。
夜、嵐がやってきて、停電になり、無性にうれしかった。

肺炎をたびたび起こす私は、都市の郊外に逃れていった。

砂漠へ 2

郊外といっても、高原のサナトリウムの柄ではない。
歴史がゼネラルサーベイされた表面に、タイムスリップしてしまった。
都市近郊の新興住宅地、というより、そのように区画された
雑木林のど真ん中だった。ここはどこだろう。
未来に行ったのか、過去に行ったのか、わからない、
これが現在に違いない、なぜか、そんな決意をしたような覚えがある。

あちこちで雑木林を切り開き、剥きだしになった赤土砂漠、
造成地が現れていた。
そこで最初に行われるのは、モトクロスショーであった。
そして、しばらくの間、造成はストップする。
理由はわからないが、町の(街ではない)あちこちで、
造成途中の砂漠が拡がり、春になると無意味に砂塵が巻き上がり、
空の周縁を銅色に染めた。
望遠鏡で見た火星は赤い星だったが、地球は青い星ではなかったのか。

もちろん、雑木林とムラの民俗も残っていたし、
辻のお化けの話しをお婆さんから聞くのがとても好きだった。
造成地は天国だった、遊ぶ場所に、あらかじめなにもないのがよかった。
そこは学校ではないので、学年を無視して遊べる。
近くの雑木林にはクワガタもいて、文句はない。
原っぱ、という空間だった。

ただ、その土地は誰かのモノだった。
昔から代々、この町(ムラ)に住んでいる者と、
新しく引っ越してきた人との間には、
土地に対する認識が違っていたように思う。
そして、コドモには、造成地しか残されていなかった。

コドモには、失われ行く習俗を見つめる文化人類学者の眼が与えられた。

テレビでは、「仮面ライダー」というコドモ番組をやっていた。
なぜ、主人公の仮面ライダーと悪の軍団・ショッカーとの闘いは、
郊外の造成地で行われるのだろうか、
本郷猛はバイク屋で働いているのか、
わからなかったが、わかった気がした。

一方で、嬉々としてウルトラマンを語る都市の子供たちがいて、
どっちがよいか、批評しあったりする。
ショッカーの怪人はなぜリアルで怖いのか、
ということを説明できる言葉がなかった。

あの醜い怪人ども、雑木林からいきなり造成地に現れる彼らは、
剥きだしになった赤土の崖、時の地震によって現れた歴史の断層なんだ。
ムラの時代に辻で切られた武士の怨念さえも宿っている。
何千年にも渡って作られてきた歴史が、今、急速に変わろうとしているんだ。
こんなことを、今なら、言える。

ライダーカードを抜き取られ、おいしくないと言って捨てられた
ライダースナックが転がっていたのも、造成地だった。

砂漠へ 3

原っぱ時代は過ぎ去っていったが、 造成地の開発はストップしたままだった。
造成地になにもなかったわけではないと知る。
あちこちで縄文の遺跡、平安の遺跡、鎌倉の遺跡が発見され、
教育委員会というエライ人たちが発掘調査を始めたからだ。
郷土史研究家が輩出したのもこのころだろう。
もちろん、調査が終われば、宅地になる。

恐ろしい気分に襲われた、おそらく、
自分の足で歩いていける世界の地平が荒らされると
感じたのだろう。
残されているのは、縄文の地面だけだ。
それは冬の畑だった。

どういうわけか、その頃、化石採集が好きだった私は
同じような気持ちで、縄文土器の破片の採集を始めたに違いない。
生きる世界への接続行為が死んだ世界へと接続されて、
最初の、時空のねじれた世界の地平が広がっていった。

冬、畑であったところを歩く、ビニール袋をもって。
風は冷たかったし、一人だったし、誰もいなかった。
友だちを誘う気はなかったし、一人でいたかった。
冬の畑は、縄文の砂漠であり、誰もが消え失せた地だった。

ボコボコ、足跡を付けながら、広い畑をどこまでも歩いていこう、
なにかきっとある、なにか、きっと。
この土地には元々産しない黒曜石の破片。
5mmにみたないそれを、いち早く発見せよ、心の指令が飛ぶ。
膝を地面に付け、這いずり廻る。
指はかじかみ、靴の中は砂だらけ。
爪は真っ黒、目元も口元も、鼻の中も黒くなっていた。
見なれた畑の地面に、次第に見えてくる、土器の破片。
見えなかったものたちが、いっせいに見えてくる。
存在を知らしめようとするかのように。
拾う、この文様は縄文前期だ、古いぞ、もっと古いものはないか。
鉄道マニアの少年が、電車の型を細かく覚えるように、
縄文の模様判読に精通していく。

地主がやってくる、「何をやってるんだ」。怒られる、と思う。
土器を、集めているんです、
というと喜んでくれた、畑の石を取り除くわけだから、
農機具の痛みも少なくなる。
彼は農作物を産み出す土地を所有し、私は縄文の歴史を所有する。
歩いていけるすべての畑はすべて縄文であり、
その表面にあるすべての縄文の遺物は自分と接続している、
そんな幻想を持っていた。

気が付けば夕方。紅に燃える太陽が雑木林に隠れようとしている。
手はアカギレで痛い。冷たくなりすぎた膝がガクガクする。
ビニール袋いっぱいのガラクタ。
だが、手に入れた。ついに。ポケットには破損した石鏃が三つ。
砂嵐のなかで、ぼおっと夕日を見ていた私の眼に、
雑木林と畑の間を走り抜ける動物が映った。兎だ。
瞬間、これ以上の速度では走れないと思うほど速く、走った。
逃げられてしまったが、異様な高揚感が包む。
縄文人ならきっとこうしたに違いなかったそれを、無意識にしたのだ。
すでに暗くなっていた。
そして星が輝き出した。縄文人もあれを見ていたのか。

遠くにある街灯がいきなり点灯した。終わりだった。

縄文人は死んでしまい、雑木林に覆われ、開墾され、畑になり、
造成地となって、縄文の砂漠が露出する。そして宅地になる。
それは所有できない。
その痕跡を追っていたにすぎない。
コドモだってそのくらいのことはわかる。
砂だらけの服や靴を親に叱られるより、
自分は縄文人ではいられないことのほうがショックだった。

造成地は宅地になり、原っぱの思想もなくなって、
残されたのは、縄文人だって見ていた、空だけである。

砂漠へ 4

造成地の区画化が進み出したとき、なぜか、UFOブームが起こった。
東京12チャンネル(現・テレビ東京)の番組に、
自分の住んでいる町の人が登場した。
町の中学校の理科の先生と生徒だった。
UFOが盛んに出没し、多数の目撃があり、理科の先生が確かめにいったら、
ほんとうに見てしまって、否定できない、というのだった。
その番組を見逃してしまった私は、友だちと共にテレビに出た生徒に
会いに行った。UFOが出てくる場所を教えてもらいに。

その場所は縄文の遺跡が多数見つかった造成地の端だった。
雑木林の方向に向かって見えるのだ、と。
ショッカーやバロムワンの怪人と同じことだった。

縄文の砂漠は、一瞬にして、未知との遭遇の砂漠に変わった。
空を飛ぶ未知の物体に接続する、それは、
テレビやラジオ、本といったメディアとの遭遇でもあった。

日本宇宙現象研究会なる奇怪な団体に入り、
今は倒産してなくなった大陸書房の本を読んだ。
磁気の変化が起こるとブザーが鳴る、UFO探知機なる得たいの知れない箱を
マイコン少年に作ってもらったりした。
半分は眉に唾して。縄文土器の冷たい手応えほどには、リアルさがなかったから。
UFOの実態などには、まったく興味がなかった。宇宙人という形にもまったく
関心がなかった。正体不明、意味不明の光がすうっと空を飛んでいる、
人間には決して理解しえない存在が、ただ、そこにある、
そのことがもたらす不思議な気分がよかったのだ。
UFOの話題がアメリカの政治的な陰謀説にスリ変わっていくに従い、興味を失う。

唯物的なUFOはUFOじゃない(そんな気分)。

夕闇が迫り、夜がくる。UFOの消えた宇宙が現れる。

砂漠へ 5

縄文の石鏃は、日本書紀では、天上界で起こった戦の流れ矢が墜ちてきた
ものだとされている。隕石と思われていた、と知ったのはずいぶん後だった。

まだ誰もよくわかっていない世界に憧れていた。
そこが私の故郷になるはずだから。

時間や物質へのねじれた接続は、空間的に広がっていった。
宇宙だ、星の世界に、接続する。
流星観測のための道具は、リヤカーに積み込み済みだ。

夕方から、夜への船出が始まる。今度は仲間がいる。
宅地に合わせて作られた巨大な公園が観測地点になる。
ほとんど毎月、流星群がある。一時間に数個しか確認できない群もあれば、
8月のペルセウス座流星群のように一分間に数個も発見してしまうこともある。
夏も秋も冬も春も、夜の空を見張り、深夜のラジオを聞いた。
流星もラジオも、友だちたちとの騒ぎも、空を満たしている。

視力が悪かった私は、最盛期の観測日には、記録係を務めた。
懐中電灯の電球を赤いマジックで塗り、赤いセロファンを張り、
光源を暗く紅くする。
瞳孔を閉じさせないためだ。
発見時間、群流星か単なる流星か、光度、速度、長さ、色、
痕のあるなし、をすばやく記入する。
記録帳は判読不能な文字で次々にめくられていく。
紅い光、待ち続ける時間、緊迫した空気、まるで戦争だ。

夜の戦争はいずれ終わり、朝がやってくる。
私は、頭のなかに別の記録を続けなければならないという、
無意味な戦争が近づいてくるのを感じた。
できれば、朝なんて来ないほうがいいと思った。

宇宙は死の領域のほうが圧倒的に広い。
宇宙は砂漠だ。では、昼間のこの世界は?
夜の砂漠は遠のき、別の砂漠が次第に近づいていた。

砂漠へ 6

そこは、別の砂漠だった。
「テストの点数で奴に負けた」と眼を紅くして泣く者がいる世界。
映画の日だけ、クラスの何人かが欠席するのが救いだったが、
彼らの多くが、日本という舟を動かす船頭になるらしかった。
何かが間違っているはずだったが、それを語る言葉をもっていなかった。
高校を早く抜け出したかったが、どこへ行くあてもない。
星は光害で見えにくくなっていたし、仲間は散り散りになっていたし、
考古学や天文学に進もうなどという気持ちはすっかり失せていた。
いや、そんな高尚なこと? とは違う意味でやってきたはずだった。

一戸建て住宅に団らんの光がやってきていた。
それを光害という。
星を見るには、光のない、そして高いところへ向かわなければならない。
暗い、暗い、暗黒の高み。

山。

次は高さや傾斜への接続だった。
望遠鏡を担いで山に向かった。
自分ははっきりとわかっていた、これは逃避なんだと。
若者はみな街に繰り出しているのか、山に行く者などいなかった。

森林限界下の森は心を癒してくれる、ここには、脅迫的な競争がない。
だからといって絶対安全ではない、ここには掟がある。
自分がその自然に合うか、合わないかだけが、大切な事柄だった。
自分が自然に対して誤っていれば、自らを滅ぼすだけの世界だ。

自分のなかの自然を裏切れば、それもまた自らを滅ぼす。
誰よりも速く登った。
口も聞けないほど疲れ、めまいがし、へたりこんでしまい、
気分が悪くなり、動けなくなる、寒気がする、ヤバイと思う。
自らを裏切った罰だ、人と競争しようとした罰だ、と思う。
いきなり缶ビールを差し出した人、飲めよ、元気になるぜ、と。
人間の砂漠では学ぶことのできない、数々の事柄を学んだ。

その山は黒曜石の産地でもあった。縄文人も黒曜石採取に来ていた。
そして、縄文人は、その先を越えて、山頂付近に石鏃を残している。
縄文海進をもたらした温暖な気候の時代とはいえ、森林限界を越えて、
縄文人は山の頂に迫っていた。なぜだ。
限界を越えれば、山もまた、砂漠でしかないとわかっていたはずだ、
縄文人は何を見ようとしたのか。気になった。

生きている人間の世界からどんどん乖離していく自分、
山に行けば大丈夫だ、やっていけると思われたが、
自分自身の気分の荒みはどうにも止めようがなかった。
人の織りなす生きているはずの世界が、虚ろに見え、耐え難かった。
本を読むことを始めて、また少し耐えられるようになった。
一人、岩と対話する登攀者のように、
本に対峙しているときこそが真剣勝負だった。

砂漠へ 7

ある日、覚悟を決めて山に行った、
今度は望遠鏡ではなく、充分すぎるほどの本を持って。
段ボールに5箱ぐらいになったので、山小屋に荷揚げした。
その内の一箱は受験参考書だったが、秋には、
ストーブの焚付けに燃やしてしまった。

本を読み、キャベツを刻み、また本を読んで、
歩荷をし、ときに、一人、岩に向かう。

剥きだしの岩山は垂直の砂漠だった。
生きるために、一から、動作を発明していかなければならない。
一つひとつ、生きるための動作を身に付けていった。
だが、垂直の岩壁を一人で登ったからといって、なんになるのだ、
社会的に無意味だ、という気持ちも強かった。
それでも、一人、岩に向かった。

これは違う、と気づいたのは夏を過ぎてからだ。
山小屋の主人や、山小屋に来るさまざまな大人たちと話しをするうちに、
この世界に生きている人間をあまりにも知らなすぎたことに気がつく。
コドモだった自分が恥ずかしかった。
人間がおもしろく思えてきた。

雪解けから初雪までいて、山から降りてきた。
ただし、生きているこの人間の世界に
親密さを感じ取ったわけではない、
逆だ。

砂漠へ 8

人間に接続する。あまりに人間的な人間世界に。
これまで接続してきた世界は「砂漠」だったが、
人間の世界ほどひどい砂漠はないと思った。
あきらかに「砂漠」だ、徹頭徹尾、砂漠になっている。
その前提のもとでなら、生きることが、その実験ができる。

死の砂漠を知りつくし、
砂漠の王となって架空の王国を支配すれば
砂漠が森に変わる、そこなら生きられる、
そんなふうに思っていたのかもしれない。

いや、多くの人間がそのように思って生きている。
そう思わなければ生きるのが辛すぎる。

だが、砂漠は砂漠のままだ、と気がついた。
住まうべき場所をあらかじめ失った人の心においては、
他人という存在、自然、現実の社会も、苛烈な砂漠だ。
時の地震は頻繁に起こり、歴史の断層を生み、
砂漠の領土は増えるばかり。そして砂漠からは誰も逃れられない、としたら。
傲然と砂漠を行くしかない。

ある人は、失われた民族の精神にこそ、住まうべき場所があると説く。
クニを作り、クニを支えることが、他者を支え自分を支え、
他国民を支えることになるのだ、と。
心の奥底にオアシスがある、それさえ復興すれば砂漠は消える、と。
血塗られた一部の人間たちが造り上げた幻想の精神が、幻想の水を与える。
喉はいっそう渇き、血を飲むようになるだろう。
民族の精神が、そのためにつぎ込まれた魂の総量だとしたら、砂漠は血で染まるだろう。

また、ある人は、言う。自分には優れたプログラムがある。
自分を含めたすべてを忘れ、私に従う者だけが砂漠を乗り越える、と。
おそらくは、身ぐるみはがれされて、砂漠に捨てられるだろう。

またある人は、心を癒せという。
臨床家たちは、この現実に対して一瞬の足払いをかけ、
その隙に自己を立ち直らせようと支援する。
それは正しい、少なくとも、今日は生きられるから。
しかし、それでも、砂漠自体は消えはしないのだ、
足払いをかける対処療法が自己を不動のものとする、
などという臨床家がいたら、それは明かに罪だ。

甘言を拒否せよ、この砂漠こそ、砂漠として受け入れなければならない。
それが前提だ。
その上で、自ら新しい動作を発明すること、それが生きることだ。

悦ばしき砂漠へ

電子の砂漠が地球を覆い始めている。
空っぽの洞窟というより、電子の砂漠という言い方がピッタシだ。
縄文土器の破片、破損した石鏃、UFOの影、宇宙の塵としての流星、
無意味な山と岩、そんなものが、電子砂漠にも転がっているに違いない。
このページも含めて、ガラクタの山。
だが、砂漠の上に転がっていると自覚しているモノと
砂漠を渡っている者だと自覚している者との出会いは、
なにか新しい動作を産み出すだろう。
ここに、人は住まうことはできないかもしれないが、
ある動作を発明する基盤としては使える、実験場として。

住まうべき場所を失った人のなかには、
住まうべき場所を「書物」にした者もいる。
砂漠の詩人たちだ。彼らの振る舞いには学ぶべきことが多い。

身近な人たちと平和に暮らす営みを支えていく、
そうして生きていながら、実験を続けること。
小さなオアシスの実験は、もっとも難しい実験のひとつだ。
身近な他人とともに生きる術を知らない者は、
遠くの他者と生きることもできない、
まして、砂漠で生きることなどできない。

砂漠は限りなく拡がっていく、それは悲惨なことか?
新しい動作が発明される実験場は
「悦ばしき砂漠」と呼ばれるだろう。