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ゴントの書類綴
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[ 6-断 想 ] |
うわぁ、引っ越しのサカイのダンボールに本を詰めて積み上げたら、パンダの壁が出現した。ダンボールを積み上げながら、なんで本はこんなに重いのか、捨ててしまおうか、と思ったりもする。
引っ越しと本についての断想、パンダと熊笹と七夕と。ちと長いタワゴト。
紙の本は、本自らが、誰かのリアルな世界に引っ越してきて、勝手に場所を占有し、居住権を求める。人間の引っ越しの時もいち早く人間に命令し、専用の場所を人間の居住空間よりも先に作れと命じる。仕方ないので、専用の場所=本棚を作ってやる、それは「本」ではなくて、まるで神様のような振る舞いだ。
神様のようなデカイ態度をとるくせに、自分の持っている本は無価値だ。引っ越し前に古本屋さんにでも売ろうかと思ったけど、BOOKOFFだって引き取らないと思う。一度、依頼して引き取りに来てもらったこともあるけど、「これは貴重な本」と思ってた本が引き取られなかった。その本は捨てずにとってある。捨てられない本、おそらく死ぬまで、再読されることのない本。それは「本」なのか。
場所がなければ、本はダンボールに詰め込まれたままで取り出せない。貸出不能・閲覧不能の閉架書庫に眠る本だ。そんな本は一生、参照されない。自分の記憶の中だけに読了の記憶と覚えているフレーズが1行あるだけ。それさえも忘れてしまう。引っ越しの時にだけ、おぼろげな記憶と結びつく本。それは「本」なのか。
もし、これら紙の本が電子本ならば、CD一枚で済むのかもしれない。電子本にしてしまえば、どこにでも持っていける。移動図書館だ。e-インクは読みやすく、美しいらしい。リアルを占有することのないテキストだけの世界、データベース。けっこう、けっこう。それは「本」なのか。
本が破壊される原初のイメージ。モーセの石版の破壊。契約が反故にされ、言葉の砂嵐が襲う。大地に向けた言葉そのものの投擲と散布。同様にバベルの塔の破壊。言葉を繋ぐ媒体の誕生と伝繙は、破壊とともにある。散逸した言葉を拾い集め、編み、カタチにして、再び投擲する人間たち、いや、投擲されるのは人間の分身か。投擲してるのは、投擲されるのは、心に突き刺さるのはいったい何なのか、それは「本」なのか。
言葉を受肉させた、リアルを占有するカタチとしての本、その本にとって、何が重要なのか。それはカタチであり、重さではないのか。情報としての内容だけではなく、そのカタチや重さそのものだったとしたら? カタチや重さのない本、それは「本」なのか。
電子本は受肉しない、それは、届くことはない。それは置かれるだけで、移動しない。コピーされれば、ここにもあり、どこにでもあるが、その利用は最初に発信者によって条件付けられる。極めて慎ましい本、人間に干渉しない本、川を渡らない本、それは「本」なのか。
カタチと重さのある本は動産ではなく不動産かもしれない。場所塞ぎなのだ。しかも、他の人にとっては無価値の「石」のように重い。本はどこにでも持っていけるけど、ただし1点のみ、無人島に持っていけるのは1点のみだ。引っ越しのサカイは無人島にパンダのダンボールを配達してくれない。持って行けない本、残された本、それは「本」なのか。
なぜ、文字は生まれ、書き込まれたのか。それがリアルを占有するのか。人間にとってのお荷物となったのか。彼・彼女らのために場所を作り、そこに住まわせなければならないのか。妻と同居するような我が隣人となった物体、それは「本」なのか。
パンダの神たち、本のトーテムよ。お前たちを捨てずに、機織り小屋に持っていくから、少し笹の葉を分けてくれ。笹の葉の短冊に願い事を書くから。七夕になったら、天国の本屋さんで働く織姫・彦星が注文短冊を見て、パンダの仲間を小屋に届けてくれる。そうしたら、パンダたちよ、仕事を手伝ってくれ。新しいパンダを「編む」仕事のために。
*引っ越し先は以前、洋裁の仕事場でした。近くに小川が流れています。
参考:
熊笹の歴史
日本の歴史をひもといてみると、笹は神代から神聖なものとして扱われています。「万葉花譜」という本によると、天照大神が機嫌を損ね、天の岩屋に姿を隠したときに、技芸の神様といわれる天鈿女命(アメノウズメノミコト)が、天の香具山の小竹葉(ササハ)を持って、舞い踊ったとあります。現代でも地鎮祭などで、四方に忌竹を立て、しめ縄を張りめぐらしたり、七夕の宵に竹葉に願いごとの短冊をつけるなど、笹は神聖なものとして扱われています。
Posted by gont at 2004年06月17日 04:23 | TrackBack
梅雨空を泳いだ鯉のぼり――「二つの暦」の話
折口信夫によると、清流の断崖(棚)に設えた機織り小屋に住み、神の到来を待ち続けながら、神の衣を織っていたのが「棚機女」(たなばた-つ-め)である。マラテラス神に仕える神女も天上で機を織っていたように、神女はみな機を織る。このイメージがどうやら中国の牽牛織女の七夕伝説と習合したのだ。