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大江健三郎の講演会に行ってきた。「言葉の力」について。69歳だというのに演壇で1時間半以上連続して話をする。つまらない映画を見て尻が痛くなることはあるが、この講演会の話しは飽きなかった。エリクソン、ピアジェ、サイード、ドストエフスキーなど、いろんな名前が飛び出してくるのだった。老人の絶望と希望、憲法9条に使われている「希求」という訳語の由来、小説を推敲するのに色鉛筆を使っていたら洋服の肘の部分が汚れてラピスラズリのような色になってしまったとか、自由に話しを続けていく。時々、笑いをとって、注意を喚起することも忘れない、なかなかうまいぞ、爺さん、と思った。
だが、話しがうますぎる、とも思った。
大江氏は、サイードのやっている(た)戦いのフィールドと、自分の仕事を重ね合わせようとしていた。自分でも「生ぬるい」と言っていたが、言葉でほんとうに戦えるのだろうか、と思う。というのは、講演の最後に、チェチェンの話しをしたからだ。「もっとも弱い者、子どもが犠牲になる」。ドストエフスキーの小説で通底しているのは、子どもに希望を託す、子どもの未来を潰すな、ということだが、彼が小説を書いてからこの時代まで、子どもにとって良い環境を作ることができたのか、否だ、悪くなっているじゃないか、と。だからこそ、子どもに希望を託し言葉を伝える必要がある、と。
ん? 何か変だな、と思った。問題の解決という希望を子どもに託す、ということは、永遠に問題が先送りされていく、自ら積み残した負債が先送りされていくだけになる。それはマズイんじゃないの? と。
大人が実現できない自らの夢を子どもに託す、というのは、子どもの未来を奪うことではないか、と。
子どもは初めから歴史的存在として扱われ、その歴史に巻き込まれる、それが大人になることであり人間なのだ、歴史的存在だと言い切るのなら、なるほど、一理あるな、と思う。ただ、今の歴史は、子どもに背負わせるには、荷が重すぎるような気がする。背負った荷を担いで歩けるのは、終点があるから、頂上があるとか、峠を越えるとか、目標があるからだが、今、そうした展望がなく、ただ、暗く険しい道が続いているだけだと思うからだ。
なので、いったん、子どもを歴史から切断して欲しいと思う。過去あったことは、子どもに、何の関係があるというのだ?
チェチェンでは、テロと対テロに間に割って入り、調停する者がいなければ、なにも解決されない。今、その間に割って入る(立たされてしまっている)のは、子どもになってしまっている。テロと対テロの間に立つ子どもたちに、メディアがマイクを向けて一言しゃべらせようとする、それはいったい何なんだ? 何をしゃべれと言うんだ? 絶句するしかないじゃないか。子どもにナイフを突きつけ解決の言葉を求める、それは大人のやっている史上最悪の回答のないクイズ番組だ。なぜ、大人のなかで、そこに割って入る者がいないのか。割って入る言葉がないのか。銃弾に負けない言葉の飛礫がないのか? 言葉を撃って撃って撃ちまくる者がいないのか? 言葉の爆弾製造工場は稼働しているのか? 現実の銃弾の前に倒れる子どもを見れば、言葉は稼働していない、言葉は圧倒的に死んでいるのだった。
その番組を大人の自分は見た、ネットで流されたCNNライブのイラク戦争と同様に見た、言葉は打ちのめされ死んだままで。そこにどうやって言葉を立ち上げるのか、言葉の工場を稼働させるのか。その工場で子どもを働かせてはダメだ、それは大人の仕事だ。
互いに憎しみ合う大人たちの間で増え続けるばかりの負債をすべて支払い、憎しみの呪縛から人間を自由にする者、調停者、言葉で歴史を切断し忘却させる者、大人たちが生産すべきは、こうした者であり、その生きた言葉だ。