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6-断 想
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2007年03月15日

無限のコミュニケーションと無言のコミュニケーション

お昼になったので、茶を入れて洗濯物を干しつつ、空を仰いで、無限とか無言(?)について、ちょっと考えてみた

(ちなみに、仕事の話ではなく、宇宙論とか人間の存在についての話、いや、そんな深淵ではなく、なんとなく気になったことを言葉遊び風に)。

「無限のコミュニケーションより無言のコミュニケーションを?」

いや、違うな。

「無限のコミュニケーションは有限だが、無言のコミュニケーションは無限だ」

かな。

「阿吽の呼吸」というのは、じつは、過去に獲得されたプロトコルに基づく有意性動作共時態であって、無言のコミュニケーションではない。秘密のプロトコルに基づいて動作しているのが他人に見えないだけだ。

そうではなく。

無言のコミュニケーションとは、相手が誰であろうがかまわない、知り合いでも、まったく見ず知らずの相手でもいい、相手が人間でなくてもよくて、存在が、そこに二つ同時に並んで存在する、ということの存在性の、その「二」とか「複数」という「機会」についての、ある種の、畏敬と緊張、それがゆえに存在しうる存在、なんていうかな、存在は対(複数)存在であるがゆえに存在たりうる、という関係の間で発生するコミュニケーションのこと(言ってる本人も言い表せてない)。

鏡とかじゃなくて。意識とモノとか、意味するものと意味されるもの、とかじゃなくて……

何を言いたいのかというと、存在することの哀しみと存在しないことの哀しみが同時に存在することが共有されることの存在性、そうした言葉に表さない、表しえない存在の様態について何か言いたいのだが、言ってしまえばその瞬間にそれは逃れ去っていってしまうものなのだ、ということなんだけど、さらに意味不明か。

うーん、まいった、また考え直す。

Posted by gont at 12:29 | Comments (1)

2006年12月01日

朝焼けのアスファルトの上から飛び立った鳥の鳴き声になるだろう。

実相寺昭雄監督が亡くなった、それで、YouTubeで「京都買います」なんぞを見ていた。なんでもあるんだなぁ、それじゃ、と思って、ふと気になって検索したら森田童子のライブ映像が出てきた。

「さよなら ぼくの ともだち」。
とはいえ、見ても見なくても変わらなかった。だって、ほとんど動かないんだもの(笑)。
リンク張ろうかと思ったけどやめた。
深夜ラジオやTAPEで聴いただけだし、実在を知らない。数千年前の桜蘭の歌人でも同じだことだ。
記憶に残ってるのは音だけ、しかも、ラジオという異次元のボックスから流れてくる音。
所有できない、音。
夜の暗いくらい星の光を望遠鏡で見るように聴かないと聞こえてこない音の情景がある。
晩秋だと、思いだすのは「ピラピタール」という曲。
淋しい歌だけど、今まで聴いた日本の歌のなかでいちばん美しいと思っている。
ちなみに、森田童子は暗い、鬱だ、と言われてるけれど、そんなこたぁない。
「狼少年」(最後のアルバムの最後の曲)を聞けば、そこに新しい星が宿っていることがわかる。
ラストの雄々しい転調で、暗黒の空に突如生まれた光、命の鼓動が聞こえる、
命とは声であり、光だ。
あの星はまだ輝いていて、命の音を奏でている、そして、
朝焼けのアスファルトの上から飛び立った鳥の鳴き声になるだろう。鳥は、自由だ。

ってもう朝じゃん!

Posted by gont at 06:48 | Comments (0)

2006年08月19日

「死者の民主主義」を巡る断想

 昨今の靖国問題は、国家と個人の生死の結び目がどのようにあるか、という問題だと思う。死者に語らせることで現世に影響力を行使する方法は、宗教的なやり方であり、政教分離にはなっていない。そこで自分は「死者の民主主義」という言葉を思いだした。
 「死者の民主主義」という言葉の意味は、ギルバート・ケイス・チェスタトンのそれとは違って、生者を否定する悪い意味として使っている。チェスタトンは『正統とは何か』で、伝統、先例主義のことをして「死者の民主主義」と述べている。

 日本に置き直せば、今在る自分の存在が歴史的存在であるならば、死者の礎の上に自らが建てられていることは間違いなく、自己同一性は祖霊の集合体とその儀礼一式によって担保されるわけだ、なるほど、ここまでは正しい。しかし、死者の民主主義は常に過去に向かった権力の集中が行われるのであって、過去の誰か、あるいは過去の事象に集中した権力を生者に折り返すその仕方、時制を超えた力の分配の法が立てられていることと、その扱いが正しくなければ、現世の権力者の権力(生殺与奪の力と言ってもいいが)を強く補うという役割でしかなくなる。ここで言っているのは、宗教的な力の源泉とは何か、霊魂の力の経済学だ。この権力を正しく総べる存在は現在、日本に不在である。いや、かつてあったかというと、なかった。それを天皇とする人もいるかもしれないが、それは戦中に行われた特殊な儀礼であり、本来の死者儀礼、葬送儀礼というのは、民族的ではなく民俗的であり、国家的ではなく地域的であり、市民的ではなく家族的・地縁的・血縁的なものだった。日本という国家や、特定の組織が、個々の命を集合的に扱うことに関して、自分は否定的であるけれど、それを保留しても、日本には死者を扱う儀礼も、その権威も、喪失している。なぜか? あの戦争に負け、多くの者が死んで、すべてがうやむや、無責任なままで、打ちひしがれ、あるいは忘れるため、経済戦争で勝利するため、これまで来てしまっているからだ。誰かが戦中の特別な力を破棄したくない、放棄したくないがため、ご破算にすることができないでいるのかもしれない。責任を追及する時、特定の者をスケープゴートにして、葬りさることはできず、ゆえに、罪と罰のグラデーションが生まれるわけだけど、何が罪で何が罪でないか、それは、我らが国民が決める部分と、国際社会が決めることと、弁別すべきだと思う。このことについては、ここでは書かない。
 
 「死者の票を生者が受け取って、現在と未来において行使するな」、この立場は崩すことができない。その理由の一つは前に書いた。票を正しく扱う儀礼含む法が正しく立てられていないし、それを執り行う人間もまたいないからだ。個人的には、そんな法は不要だし、法の執行者も不要だ、というか止めてくれ、オレに対しては。
 もう一つは、未来時制より過去時制のほうが、影響力が強いからだ。過去には具体的な誰それが存在しているが、未来はまだ誰が出てくるか分からない。ありもしない未来より、確実に存在した過去の言うことが正しい、と。だが、それが高じると、未来さえも過去へと送り込まれる。現在に生きる人間が未来の価値の先物取引をして、それを過去に献上してどうなるというのか。過去に固執するということは、暗い未来しか思い描けないからだ、だから過去を賛美する。未来がどうなろうが知ったことではない、過去の権威を担いで、その高みから現在へと権力を備給できていればよい、と。そんな人間は過去も未来も喰いものにしている。

 「過去の戦争で亡くなった方の尊い犠牲のうえに現在が成り立っている」という言い方には、トリックがある。過去のああした「悲惨このうえない犠牲」がなければ、もっと良い現在があったかもしれないからだ。つまり、「尊い」という言い方には、ああした「死に方」が「正しかった」ということ、そのような「死」を奨励している面が見てとれる。それぞれの個人が究極的に犠牲を選びとらざるを得なかったことは確かかもしれないが、それを強いるというのはどういうことだ? 能動的に行われた犠牲もあっただろう、それについては立派な覚悟であると思うけど、それを強制することなどはできないし、それは殺人でしかないのだ。死んだのではない、殺されたのだ。なぜそれを隠すのだ? 死んだことが無意味だったのか? 無意味な死だったのか? そんなことは認められない! その通りだ。無意味な死、残酷な死をもたらした者や組織や機能を断罪するまでは死ぬに死ねない、たとえ神として祀られようとも。その怨念を封じるための蓋などいらぬ。だが…死者は語れない。そこには、断念と無念が在るのみなのだ。
 「公のために死す」「殉職」「国家の礎となって」……よかろう、それを言うならば、私利私欲を貪る亡者で溢れるこの現在の国家を「個々の生に値する存在」にしようと努力してくれたまえ、「公」というのは「公平」ということだ。少なくとも腐れ為政者の現世のために我が命を犠牲にする気など毛頭ないと言っておくし、現在だけでなく「現世の借金のために売り飛ばしてしまった未来を買い戻したらどうだ」と言いたい。過去の栄華や栄光を買い戻すために未来を売った者たち、明日起きると枕元に死神が座っているかもしれない者たち、現在のために殺されかけている未来からの使者=死者は、黙して語らないが、この国の未来の心臓を掴んでいる。
「現在の生者の民主主義」「死者の民主主義」があるならば「ありうべき未来からの使者の民主主義」もあるはずだし、かつて、「死者の民主主義」は「未来の民主主義への橋渡しのために現世を抑制する」ためにあったはずだ。それがない今は、厳粛に「死者の民主主義」を否定しておきたいし、「ありうべき未来からの使者の民主主義」を構想したい、構想するだけで罪人扱いされかねないこの世の中で。
(ちなみに「ありうべき未来からの使者の民主主義」のために過去も現在をも否定する仕方は、破綻した左巻きの社会革命理論でもある。その源泉は、ユダヤ教やキリスト教にあるし、生死の観念にはさまざまなバリエーションがあるし、それは個々で違っていて当然で、統一されるほうがおかしい)

Posted by gont at 10:39 | Comments (0) | TrackBack

2006年01月07日

敵から逃亡せよ、敵が存在しなくなる無限遠点まで

 正月からランニング100km。午後になってから走り出す。千葉から東京へ、そして埼玉へ。
 夜の京葉湾岸、谷津干潟沿いの歩道は走りやすく、干潟の面に映る街の灯が美しい。思いがけない夜の風景だった。皇居を周回し、北へと向かい、翌朝、自宅着。

 さて、走りながら思っていなかったことについて、今、書いてみる。

 0時を回った。今日は箱根駅伝。そのスタート付近を通りすぎる。
 01時。皇居着。いつものごとく警備の警官が立っている。他には誰もいない。
 誰もいないのか? いや……
 走りながらイヤホンで聞いていたラジオから、敗戦時の玉音放送が流れる。
 足を引きずり、ライトもなく進み、行き倒れ、昭和の歴史の闇の闇の闇へ、夜の夜の夜の影となった亡霊たちが、私を通して、その声を聞いているような気がしたが……私は霊媒ではない。気のせいだろう。帰ってきた亡霊たちは掘の周囲を渦状にいつまでも回転しているのだろうか、それとも靖国に収容されているのだろうか。断絶的で循環する閉じた歴史意識と連続的直線的(線分的)な歴史意識、その幾何学的接点は、皇居の掘で断絶されている。その掘はとても深く、渡ることができない。歳神が渡れない堀があれば、その先は歳をとらない世界、永遠の天国か地獄だろう。
 幾度も回帰する苦しみの行軍、リングワンデルング(環状彷徨)する精神について考える。ホワイトアウトした雪中行軍時には、このようなリングワンデルングが起こりやすい。雪原を奮闘してラッセルしたあげく、また同じところに戻ってきてしまうのだ。雪の中でも、泥田の中でも、密林でも、闇夜でも、現代でも、それは起こる。
 これだけ動いたのに、そう、時間も費やして足を動かしたのに、まだ同じところに留まっている。
 そうだ、ここは……まだ1周目が終わったにすぎない。
 彷徨うならば、彷徨うがいい、回転しているならば、回転すればいい。その回転の中心に重力がある。接近しつつスイングバイして離脱することは可能だろうか? あるいは、重力圏から離脱するために加速すべきか。そもそもオレはなんで遊星気取りなんだ? 皇居的存在をしてブラックホールや太陽になぞらえるのはいかがなものか。中の人、彼ら彼女らもまた、死と闇を畏れる人間だろうし、数ある恒星・遊星、超新星爆発のカケラの一つだろう。
 円環的に回帰すべきか、それとも波線状に彷徨うべきかを幾何的な問いとして解いたところで、この膝の痛みはとれない。そうだ、この痛みを散らすために、様々なことに思いめぐらせているだけなのだろう。ここはアスファルトやコンクリの上。固く舗装されていると最初は快適な走りができるけれど、次第に膝が痛くなる。移動する生身の人間の足には、雪原でも泥濘でもなくアスファルトでもコンクリでもない、ほどよく踏み固められた土の地面のがいい。
 いずれにしても、この世は、生身の人間の移動には最適化されていないようだ。
 足が痛いのなら、いいかげん、進むのを止めたらどうだろう。この、どうでもよいランニングの企てから降りたらどうだろう? 簡単なことだ、足を止めさえすればいい。タクシーを拾って帰ればいい、正月だから電車だって動いているかもしれない。早く帰って眠ればいい。もう02時過ぎている。進まねばならない、その脅迫的な考えからこそ逃れるべきではないか? 運送の仕事ならともかく、タダで深夜に走ってどうする? 長距離のトラックだってタクシーだって夜間は割増だというのに。だいたい長距離を走るのは健康によくない。しかも寝ないで走るなんて寿命を縮めるだけじゃないのか。
 山が見える、そこに行きたい。頂上から朝日を見たらきれいだろうな。それだけの動機で夜に山を登る人だっているのだから、夜に走る人がいてもいいじゃないか。
 進めるだけ進む、走れるだけ走る。
 ここで終わりにしない。100km走ると決めたからには走ろう。そこに特別の意味はない、MUSTはない。ただ自分が自分に対してそう決めたからそうするだけなのだ。走り終われば見えてくる何かに希望があるから走るだけ。ねばならぬこと、なければならぬことに追い立てられている日常、そうした命令群から自由でありたい。もしMUSTがあるにしても、今は、自分の無意味な命令によって走っていたい。
 敢えて特別な意味を付け足すこともできる。得体の知れない大義や召命に急き立てられ感化され何事か熱狂的になされたことで世界中の怨嗟が爆発的に増した前世紀そして今世紀の初めのパラダイムから自分は距離を置いて冷静に自らと世界を見つめる視座を手にいれるために、走っていたい(食べていたい、眠っていたい、異性と抱き合っていたい、排泄していたい、ここにはあらゆる私的な動作が代入可能ですのでご利用ください)。
 経済的・政治的・宗教的・人種的・民族的・国家的な、あらゆる対立を煽る為政者たちは、自ら無意味に走ったりしない。戦い合わせたい双方が見守るカメラの前で、マイクの前で、大仰な身振り手振りで演説をぶった後、その後は後ろに下がって、坐って指示するだけだ。彼らは微動だにせずに言葉だけで他人を動かす、口車という戦車に大衆を乗せ、自分は御輿に担がれる存在、権力とはそういうものだし、人間はそういう権力を熱狂的に欲することがある。結果として前線に送り込まれ銃を持たされ爆弾を持たされ殺し殺されて英雄に祀り上げられ参拝され、後衛では人殺しの手伝いという労働をさせられ多くの血が流され苦しみが増え続ける、そういう世界で、苦しみに加担せずに生きるための身のこなし方、振る舞い方、考え方を維持するには、走っていればいい(ラーメンが食べたければ食べていてもいいけど、その行為が連続的に自主的に可能である環境は、もしかしたら、走って移動する行為の中に限定されていく可能性もある)。走っていれば、少なくとも逃げ足は早くなる。敵前逃亡? そう、敵から逃亡せよ、敵が存在しなくなる無限遠点まで。自らの影が存在しなくなる夜、自らの内なる敵から、無限遠点まで逃れよ。

 皇居2周目、足音は聞こえないが……我が内なる影は闇夜でもまだ追いかけてくるらしい。

Posted by gont at 16:39 | Comments (0) | TrackBack

2005年12月05日

すべての小径でピクニックってのはどうだ?

今日は青空のせいでいろいろと考える。なんせ布団も干したし洗濯もした。

さて、地球上のすべての小径でピクニックする、というのは素敵な案だと思うがどうだろう。
BGMはこれで。

「すべての山に登りなさい
 高い所も低い所も探し求めなさい
 すべての脇道もたどりなさい
 あなたの知っているすべての小径を」

(K・S氏訳、ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』より、“すべての山に登れ”)


参考:
汎ヨーロッパ・ピクニック@Wikipedia
「汎ヨーロッパ・ピクニック」計画@ハンガリー政府観光局

おまけ: 大日本山岳部

ありがちだなぁ、と思いつつ、東京タワーから銚子の犬吠埼が144kmとは知らなかった

Posted by gont at 15:28 | Comments (0)

二ツ玉低気圧

P1001430.jpg

 師走の冬晴れ空の青を観ていると、少し考えてみたくもなる。
 青ざめた馬の尻に乗る子どもたちの国の行く末について。

『アドルフ・Eの亡霊』

マウトハウゼン強制収容所


(以下、適当に浮かんだイメージについて書く)

 目の前には崩れた城壁がある、何度か修復して再び崩れ放置してある。いつだって崩されるがいつだって積み上げるべきだ、いつでも、どこでも、それは可能だし、年末年始でなくてもできる。城壁のピースは耐火煉瓦ではない、花崗岩でもない、それには重さがない。それは人々を囲う遮蔽ではない。常識という名の陳腐な悪から身を守る魔法の楯だ。

 全面完全、そして、ためらうことなき即時的な懐疑、わずかな静謐、青空に放つラインの切れた気象気球。

 未明には二ツ玉低気圧が通過するそうだ。

Posted by gont at 14:21 | Comments (0)

2005年06月08日

子之神試論-1

 論というより、想像(ファンタジー、歴史浪漫、妄想?)です。
 なお、継続的に追加、更新予定です(^^ゞ

 先日、東久留米を流れる黒目川を上流に向かってジョギングしていたら、自転車の伴走者が「近くに不思議な雰囲気のある小さな神社があるから行ってみよう」というので、川岸を離れて段丘崖下に向かった。
 川から50mほどで神社参道階段下に着く。
 左右に覆い被さる樹木が静謐な暗がりを作っている。「子ノ神社」(ねのじんじゃ)だった。

 「子ノ神社」は黒目川の左岸段丘にある小さな神社。東久留米駅南口から所沢方面に歩いて黒目川に降りて橋を渡り、黒目川左岸の上流にわずかに行った河岸段丘崖にある(旧小山地区、小山1−14−25)。
 聞いたことのない神社の名前に惹かれた。子ノ神社? 階段上にある社殿そのものには特別の感情が湧いてこない。再び降りて、階段下の登り坂の車道を右に上がると、そこは「小山台遺跡公園」で、縄文遺跡の発掘跡地の公園だった。南側には気分のよい眺望が広がっている。下に黒目川を見て対岸に東久留米駅周辺が見える。
 参道の階段、左右に覆い被さる鬱蒼とした樹木の太古の暗がりに比べて、この縄文遺跡の丘の明るさはなんだろう。八ヶ岳の尖石のある崖と、その上の舌状台地のような関係。……子ノ神社と縄文は繋がってる……

 自宅に戻ってからネットで子ノ神社について調べていくと、原始・古代の渦に巻き込まれてしまった……子どもの頃、畑で縄文土器の欠片を集めるのが趣味で学生社刊の藤森栄一の本を読むようなアマチュア考古ファンだったし……(^^ゞ)次から次へと検索していくネットの旅に答えは出なかったけれど、時空を超える旅は楽しかった。

黒目川の子ノ神社について記述のあるサイトのページは以下の通り

子ノ神社
子ノ神社は、南沢氷川神社神職が兼任して務める十社の氏神様のひとつ

緑と湧水の里 東久留米総鎮守
南沢氷川神社

「小山・金山コース=丘のこみち」の主な見どころ
(3) 小山緑地保全地域と子ノ神社・小山台遺跡公園

東久留米市近郊の名所
9)子ノ神社(小山)@知り合いのストロンガーさん

 由緒の書かれた看板を読む。

 子ノ神社略記
 ……文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ……神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子(ね)を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり……大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして……創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、三百石を賜り小山村の地頭となった。……

 文禄元年(1592)に建立・神社化した、となると、天正18年(1590)8月に関東・江戸に移し替えとなってやってきた徳川家康の影響が思い浮かぶ。豊臣秀吉が小田原攻めをして北条氏を滅ぼし、その北条氏の遺領を与えるという形で徳川家康は江戸にやってきている。北条氏に仕えていたとされる矢部氏は北条氏とともに滅亡したのかもしれないが、落ち延びて小山村に居住し、のちに氏族を再興した、のかもしれない。あるいは、北条に仕えた氏族の一部は徳川に付き、矢部氏は徳川の命で別の場所に移住させらた、のかもしれない。
 徳川がやってくる前の矢部氏の所在地は不明だ。子ノ神社由緒では「相模三浦氏の子孫」となっていて、鎌倉時代への時の遡りを示唆している。場所は三浦半島や相模ではなく、相模原、だろう。相模原市には鎌倉時代の矢部氏の居館の土塁跡が残されている(横浜線矢部駅北口から真っ直ぐ境川の方向)。鎌倉の矢部氏と、徳川の世の始めに黒目川の子ノ神社を建立した矢部氏は、同じ矢部氏だろうか。

相模原市の太平記

矢部良兼は横山党の武士で1213年5月和田合戦に参加して、他の横山党の武士と共に討ち死にしたそうです。

横山党
八王子市横山の地名にもなった横山氏。
元は、小野妹子、小野道風、小野小町等を
排出した 小野氏が名前を変えた1族。

 相模原に居た鎌倉時代の矢部氏は横山党の武士だったようだ。横山党は、平安時代末から鎌倉、室町時代にかけて武蔵国を中心に勢力を持った同族武士団「武蔵七党」の一つ。また、八王子北条氏は、相模原を含めて多摩から武蔵まで、広範囲の影響力があり、かつ、小田原北条氏よりも古層の結集力を持っていたと思われる。

 黒目川小山村の矢部氏が八王子の横山党の一員だとすると、相模原と黒目川(東久留米)の遠い距離も近く感じられる。
 以下のサイトには矢部氏と横山党の関係が書かれており、さらに矢部氏の居た土地、その土地がどうなったかが書かれている。

境川

「平安時代末期〜鎌倉時代初期に多摩から武蔵にかけて勢力を誇った武士団、横山党の一族」
「このあたり(神奈川県相模原市、旧相模国)は矢部氏が治めていたところということで「矢部」の地名が付いていますが、実は相模国と武蔵国を分ける境界という意味で名付けられた「境川」の、武蔵国側である東京都町田市内にも同じく「矢部」という地名があります。なぜでしょう?

(略)

 1594年(文禄3年)の太閤検地で、現在の境川が相模国と武蔵国を分ける境界として定められたため、今まで1つの集落であったものが、川を境に違う国の別の集落になるという、住民の生活圏を無視したいびつなものになってしまった」

「神奈川県相模原市矢部」と「東京都町田市矢部町」が存在する。同様に「東京都町田市小山町」と「神奈川県相模原市小山」も存在する。黒目川子ノ神社付近が「小山村」と言われていたのは前に記した通りだ。

 境川流域に住んでいた矢部氏の一部は北条滅亡後、徳川の命で(あるいは逃れて)、黒目川の左岸に移り、そして子ノ神社を建てた、こんなふうに考えてみた。
 では、なぜ、矢部氏は子ノ神社を建てたのか? それで境川について調べていくと、川の近くに「子ノ神社」があり(浅間神社も)、その神社の近くには縄文遺跡が存在する。境川は小さな川だが、台地からの湧き水が豊富で、途中の流路が蛇行していて洪水もたびたび起きたという。これは黒目川と同じ特徴を持っているのだ。

公所 アクタ川と神の岡(じっくり版)

 矢部氏、子ノ神社、縄文、川。これらの特徴の一致は偶然とは思えない。
 何かある。
 こうして、子ノ神社を巡る仮想の旅が始まった。

Posted by gont at 07:01 | Comments (0) | TrackBack

2005年01月31日

地獄の民主主義

 銃で護衛された投票行動。投票に行くのではなく、銃弾を撃ち込みに行くのと同じ。イラク戦と同様で首尾一貫して馬鹿っぽい。押しつけられた民主主義とフセイン独裁どっちがいいか、なんて言う人もあるが、そんな馬鹿げた択一問題があるか? 暑い地獄と寒い地獄どっちがいいって? 原油のソースで焼いたテキサスの牛肉を食べて暮らしてるなら、どんな地獄にも耐えられるそうだけど、人間はそうはいかないんだよね。ちなみに日本にも民主主義なんてないよね。どこが民主だ(笑)。真綿で首を絞める地獄機能の付いた民主主義ってステキ。なんにせよ、今のうちに低酸素に慣れていたほうがよいと思う。

Posted by gont at 02:29 | TrackBack

2005年01月26日

分断としての/分断ゆえに

国家、分断としての機能であり、それ以外のなにものでもない。ロシア帝国とイギリス領インドの間に置かれた分断の帯としてのアフガニスタンのごとく、国家は分断そのものである。ゆえに、国民はすべからく引き裂かれており、それゆえにまた引き裂くのである。捨て去ることのできぬ分断の機能を微分すること、モナドとなるまで。あらゆる関係を引き裂くことによってしか、人は新たな紐帯を見つけることができない。人はまだ絶望が足りないのである。

Posted by gont at 01:54

2004年12月28日

大津波と小泉八雲−稲むらの火を消すな

 スマトラ島付近の大地震で、アジアの各所に大津波が襲いかかった。1万8000人を超える死者が出ているという。その原因の一つは、地震や津波への警戒がまったくされていなかった、ということだ。前回の大津波が数千年前で、遠い昔の伝説のなかにだけ残されているような地域もあるらしい。
 地震や津波の記憶は、人間の心にとってあまりに強い衝撃のため、伝説になったり、物語になって残ることがあるが、それがゆえに、事実ではないこと、とされ、軽んじられてしまうこともある。
 『稲むらの火』という話をご存じだろうか? 安政元年(1854)に起こった大地震、それにともなう大津波に襲われた村を救い、復旧に尽力した人物・浜口梧陵の話だ。昭和12年から22年まで、 文部省発行の小学校国語読本に浜口梧陵を紹介した「稲むらの火」(中井常蔵著)が掲載された。
 この話が昭和初期の教科書に載る前に、いち早く世界に広めた人物がいる、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)だ。彼は明治29年、岩手県の津波と浜口梧陵の史実に関連する新聞記事を小泉セツ夫人から読み聞かされ、これをもとに『A Living God』を書きあげたという(下記参考サイトより)。
 今年は新潟中越で大きな地震があり、また、台風でも大きな被害が出た。近いうちに必ず起こると言われている東海地震、増えていく自然災害、そして天災による個人財産損失の補償はしないという国の一貫した立場を思うと、日本に住む人が直面する未来の問題は、けっして、政治経済だけではないことがわかる。地震や津波は、遠い昔のお話ではなく、近い将来に必ず起こる現実なのだ、日本に住んでいるならば。
 日本人の心から『稲むらの火』を消してはならない。

参考:

稲村の火

「彼が広村に帰郷していたとき、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。彼は、稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、彼らを安全な場所に避難させました。しかし、津波により村には大きな爪あとが残りました」



稲村の火 webサイト

Posted by gont at 01:04 | Comments (0) | TrackBack