トラブル耐性と関係のコスト

地震で自動車部品メーカーの操業が止まった。
地震で工場が壊れて、部品が供給できなくなった。トヨタは27の工場を止めた。
地方で起こった災害が、全国に波及し、さらに全世界に波及していく。

日本の産業の多くは、すべてがうまく繋がって連動している状態で、ベストの力・競争力を維持していることがわかる。
個々の努力の上に、さらに、その繋がりの深さ、応答速度に依存しているのだった。
[追記]
上記の生産の連携・連動・応答に関して、日本はまさに血と汗の結晶ともいえる方式を編み出してやってきた。
ジャストインタイム生産システム(カンバン方式)である(→WIKIでは、その弱点として「不測の事態に対しては極めて脆弱である」と書かれている)。

最近、応答速度と関係の深さが逆比例にある関係が増えているような気がする。
派遣業務などはまさにそうだ。
組織間、個々の人間の繋がりのコストを切り捨て、なおかつ「すべてうまくいってる状態」が維持できていれば利益は大きい。しかし、突発的に「うまくいかない状態」が起これば、リカバリすることができず、あっという間にダメになってしまうだろう。

今回の地震で壊れた工場の再稼働のために、メーカーは社員をたくさん送り込んでいるようだけど、どの段階で「助けなければ」と思っただろうか。職業意識で「あの工場が止まったらすべてのラインが停止する」という判断したのだろうか。いちばん早く動いた企業はどこか、それを上申し、決断し、互いのため、工場を守ろうとした企業はどこであったか。
真の意味でパートナーシップがあるのは、どのメーカーだったのか、現場の人たちは骨身で理解するだろう。
そうした印象が、企業の未来を左右するかもしれない。

地震があると思い出す。
トラブル発生時にどうするか。リカバリできるようになっているか。セーフティネットの仕組みはあるか。そもそも、トラブルにどれだけ強い状態なのか。

どんなに小さな企業であっても、誰にもマネできない技術力があれば、多くの企業が助けてくれる。工場が壊れて他の仕事が流れてしまって仕事がなくなってしまう企業もあるだろうけど、地道に仕事をしてきた企業なら、助けてくれるところもある。
人間も同じことだと思う。同質的な集団は同質的な諸問題には解決が早いかもしれないが、異質な問題で全滅してしまう。厳しい環境では、異質な個性と能力が混ざった集団こそが強いと思う。生物の多様性戦略そのものだ。

これと同じことは、個人の生活でも、身近な隣近所のつきあいの問題でも、あるいは、日本という国家のレベルでも、同じことが言えると思う。

異質なものを切り捨てて突っ走って、その速度を維持するために、さらに切り捨てて、途中でアクシデントに見舞われ、それを覆い隠すためにドーピング(偽装)を行い、最後にはボロボロになって、逝き倒れる、そんなスポーツ選手と似たような状態に陥ってはいないだろうか。

柏崎刈羽原発の事故においては、安全性へのコストが少なすぎたといえる。耐震設計やトラブル発生時に自力で被害を付防ぐ仕組みがなかった(火災の際、119番の消防車に頼っているとは驚いた)。年金はどうだろう、これも国民生活の安全のためのコストのかけ方の問題だろうが、ぞんざいに扱われていた。きちんと突合させるためのコストをかけて、仕事さえしていれば、こんなことにはならなかった。役人は仕事を怠り、政府は見逃して先送りし、国民はチェック機能を果たしていなかった。

それは、国の政治が悪いなどという単純な話ではなくて、人間それぞれが関係のコストをあまりにも低く見積もっている、ということだと思う。
いや、コストをかけるべき、そもそもお金を投じて蕩尽すべき場所は、自分の中ではなくて、人と人の間ではないのか。
そこに祭りがあるのではないのか。

自分にとって大切なことは何か、地震などの災害の時は、そのことを思い出そう。