計算・予測可能な世界の外

最近、ずっと仕事が押してまして、夕方にランニングができずにいるわけですが、そうするとブログに書くネタがないわけでして、それじゃ、ラン以外のネタでたまにはブログに何か書こうということで、書いてみます。

といっても、あまり時間もないので、テキストファイルに適当に書いてあったメモをまとめる感じで。

テレビの金融関係の特集番組を見ていたら、「死亡債」「カタストロフィー債」という新しいファンドが好調で、ウォール街や上海にはマネーが舞い戻ってきているそうです。

これにちょっと、ひっかかりました。

天災はサブプライムよりもまし?-カタストロフィー債が投資家に人気@bloomberg

ちなみに記事のタイトルは最初、「死亡債」「カタストロフィー債」にしようかと思ったんですが、ちょっと話が暗い感じがしたので、止めておきました。


何を言いたいのか、いろいろとモヤモヤした思いがあるので、ダラダラと書いて行きます。

まず、死亡債。
保険を生前に買い取って束ねて別の債券にしてこれを販売し、集めた金で投機して儲ける、というのは、それでいいのだろうか? という素朴な気持ち。生命保険があるのだから、命と金は交換可能ということは当然ではあるのですが(正確に言うと、そのように交換可能だと決めている人たちがいて、そのような市場を創りあげ、その市場を経由したマネーによって別の市場にマネーが流れ、役に立ったり、困ったことになったりしている。マネーと交換可能だからといって、マネーでもって同じ命=人格をもった一人の人間を同等に作り上げることはできないのは当然です、それは唯一無二)。

「死」を計算し尽くしているという不気味さもあります。これも保険商品の企画なら、当然、計算するものなのでしょうけど。
金融商品というのは計算・予測可能な閉じた系における確率の計算から生まれてくるはずで(もちろん、そうではない部分の計算も充分にしたうえで、でしょうけれど)、だとしたら、死やカタストロフィーが、計算・予測可能である、という前提があるということ。

それは逆に言うと、死はコントロールされている、されうる、ことを示しています。また予測が外れそうであれば、人為的に変えることができる、場合によって「死やカタストロフィーを人為的に起こす用意がある」ことを暗示しているのではないか、と。そこまで考える必要はないのかもしれませんが(また陰謀論か!?[笑……えないか])、このような商品が成立する背景には、巧妙な仕掛けが施されているのではないか、と。

ここで思い出すのは、「テロとの戦い」です(この呼称には疑問もありますが)。
世界は予測不能の「死」の恐怖に浸されていて、「死」の供給過剰、死のインフレが起こっています。東西冷戦時代の二極が崩れ、多極化した現在、どこで何が起こるのか予想がつかない状態になっています。
偏在する「死」を逆に利用することで錬金術を行っているのではないか、と。

次にカタストロフィー債。
誰でも知っている地球温暖化の問題、CO2排出問題として、自分たちの生活に直結している問題です。

しかし、地球温暖化とその世界規模の対策について、明確な国民的コンセンサスがとれていないように思います。財界の反対とは別に、です。本当なのか、本当だとして、CO2を削減すればいいのか、その数字の根拠や、その排出枠の売買の効果についての、充分な説明がなされているのだろうか、と(民主党のマニフェストにはちゃっかり載ってますけれど)。
2009年9月17日(木)現在の日本であれば、民主党政権が4年以内に環境税を法制化するかもしれません(各国が数字的にテーブルに乗るとした段階で)。科学屋・工学屋さんの鳩山総理は「政治を科学する」そうなので、おおいにありうる話です。科学者や政治家の間では議論は尽くされたのかもしれませんが、国民はイメージとしてしか、それを知らないでしょう。為政者も、環境省もアピールする必要があるでしょう。

また、2009年8月に東海地方で地震がありましたが、地震保険というのも難しいものだと思います。地震がどうして起こるのか、その発生メカニズムも、サイクルも、まして予知もできないわけですから、保険にしようがないのではないか、と。東海地震には発生サイクルがある、だからある程度予測できる、だから対策も可能だし、計算可能であるならば保険も可能だ、ということでしょうか。まだ一度もそれは実証されていないわけですが。
地震保険に関しては、実際に地震が起こって保険会社の支払が巨額となって窮地に陥るのを防ぐため、保険会社が保険に入るという「地震再保険」というのがあります。この再保険というのは、政府が保険責任を分担するという官民一体の制度ですが「最後は政府が保障するから大丈夫」というのは、ようするに国民の税金で賄うわけですから、タコがタコの足を喰う状態です。
一国の政府内でそれが完結していればいいですが、マネーゲームに国境などありません。
台風にしても原発事故にしても、そうしたカタストロフィーのリスクをできるだけ遠くに(より正確に言えばお金持ちではない人たちに)おいやるための見えないカラクリ、という気もします。

こうした「死亡債」「カタストロフィー債」は、サブプライムローンで懲りた投資家にもアピールできる安定した商品であるというのが売り文句のようです。欲望に忠実で懲りない人たちは、再び暴走するのでしょう。
計算・予測可能な世界を捉えた本人が、その世界の外へ逃れて暴走する、というのは、おかしな話です。
こうしたマネーの暴走の善悪についてはまた別に考えるとしましょう。

自分はなぜこういうことに興味があるのか、何を考えようとしているのか、それについて考えてみます。
今の時代は「死」を「リスク(不確実性、損)」と考えていますが、「生」をリスクとした世界の状態もあります。ここがおそらく世界宗教の原点だと思いますが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の描く時代よりもずっと古い時代から考え続けてこられた、さまざまな人間集団の生と死の意味のモデルについて考えてみたいものです。
人間がこれまで描いてきた宇宙論(この世界がなぜこのようにしてあるのかを説明したモデル)の変転について考えてみたいものです。そこに、マネー=金がもっとも重要な概念としてあるはずです。生と死と貨幣経済の関係、経済人類学(文化人類学)の範疇で、ずっとひっかかっている部分です。年齢が上がると、今まで見えていなかったことが見えてきて、おもしろいものです(その分、思考にキレと粘りと繊細さが消えてしまって、ステレオタイプな考え方を続けているのに気づかない、のかもしれません。こうして書いている内容も、すでに古錆びた考えなのかもしれない)。

こうして書いておけば、また後で思い出すこともあるでしょう。
自分が何を考えようとしていたのか(それさえも忘れていくのかもしれませんが)。

さて……

NHKの番組では、アメリカの地方銀行は金利支払いが滞り、貸し渋り・貸し剥がしで、産業にマネーが回らない、という状態が指摘されていました。番組を見た印象では、ちょうど日本のバブル崩壊後の過程がこれから始まろうとしている、という印象を持ちました。景気はどうやら二番底がありそうですし、オバマのやろうとしている国民皆保険制度への反発が米国内で強まっていることだし、そう簡単に回復しないぞこれは、という気分になりました。

また、日本のメーカー・クボタの例が紹介されていました。サブプラのバブル時には大量に芝刈り機が売れていましたが、一気に売れなくなり、今度は中国で売ろうとがんばりますが、競合メーカーの製品があまりにも安い、最終的には、コアのエンジンの製造まで現地で行わなければコストを下げることはできない、と。番組では、エンジンの製造行程そのものを輸出するという、技術コンサル輸出でしばらくは凌げる、という感じでまとめてはいましたが、現実として国内工場は減らざるを得ないし、国内の産業の空洞化が加速する、と思いました。

そのような状況下、日本の雇用は極めて厳しい状態に陥ろうとしています。
若年層に仕事がありません。

日本の若者、「失業率9.9%」 OECDが警告
日本の15~24歳の失業率は1年間で2.4ポイント上がって9.9%に達したとして、経済協力開発機構(OECD)が2009年9月16日、日本に対して雇用対策が急務だと警告した。

麻生政権もそうでしたが、鳩山政権も、若年層の雇用回復に関する抜本的なシナリオとその対策など、持ち合わせていないはずです(民主党マニフェストにあるのは、職業訓練制度にお金を出す、程度です)。若年層は票にならないからです。
しかし、そこを切り捨てるということは、未来の日本を削ることです。
すでに失われた10年があり、さらに20年になりつつあります。
小泉の時代のわずか数年だけ、雇用が回復したかに思えた時代もありましたが、これも一部の企業のみでの話です。
厳しい経済環境のツケをまたしても若年層に回したら、その最終的なツケは、日本全体が支払うことになるでしょう。

計算・予測可能な世界の外” に1件のフィードバックがあります

  1. ボーゲンマン

    Gontさんの冷静な分析は、的を得ている気がします。
    今後の日本や世界の情勢分析など、言われてみるとそうだなと思いますが、自分だけでは思いもつきません。
    「死亡債」「カタストロフィー債」の内容も興味深く読みました。

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